15/07/07 22:29
豪雨災害から20年
20年前、平成7年7月11日。
忘れられない豪雨災害の日。
まもなく20年を迎える被災地小谷村では、7月12日に「7.11豪雨災害シンポジウム」を開催する。
それに伴って今、役場では災害当時の写真パネルが展示されている。
二度と見たくないこの光景、しかしいくら見ていても飽きない。
20年前、まだまだケータイは普及せず、ウインドウズ95のソフト販売開始に長蛇の列が出来た年である。
したがって災害が起こって電線、電話線、道路が断ち切られた中ではどこがどうなっているのか、まったくわからなかった。
数日後、誰かが避難所に発電機を持ってきてくれて、ようやくテレビを見ることができた。
田舎のことゆえ映るのはNHK。しかしそこに映されているのは大きな岩が転がるシーンや川が濁流となって下るシーン。
このブログでも何度かそういうマスコミ映像の悪口を書いたが、最も情報の入らないのは被災地である。
村全体がどういう状況になっているのか、それが知りたかった。
そのような状況のわかりにくい写し方をするマスコミの体質は今も変わっていない。
役場の職員もこの災害を知らない人が多くなった。
その時は地元にいなかったり、まだ学生、あるいは物心ついてない子どもだったり。
月日の経つのは早いものである。
このとき、小谷壊滅とまでいわれた災害で一人の死者も出さなかった、といって全国で有名になったかと思う。
しかし、残念ながらその後、後処理の過労が元で逝去されたといわれる当時の助役さん、復旧工事で命を落とされた人もいた。
わが家とお隣さんも裏山からの地滑りで家は全壊、ひと夏を牛小屋で過ごした。
この年はその後の天気がよく、復旧工事のしやすい日々が続いたが、裏山の地滑り工事はなかなか着工にならなかった。
村の予算、県の予算、国の予算と各方面の復旧工事費用があるのだろうが、それらが予算化されるまでの行政の測量や手続きは煩雑であり、範囲は村中にわたっているため容易なことではなかっただろう。
冬には家に入れるのだろうかと悩んでいるとき、ときの村長さんが自ら連絡をくれた。これこれこういうわけでもう少し待ってほしい・・・と。
村中が大騒ぎのときに村長さんがわざわざ連絡を・・・心に沁みた。
小谷は何処も負けず劣らず急峻な地滑り地帯。
どうしても石で固めなければ住めないような状況もある。
しかし、ここに住んで田を作り、水や山を管理する腰の曲がった農夫の仕事がどれほど治山治水に貢献していることか。
今年は何事も起こりませんように・・・毎年今の時期は祈るように空を眺める。
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