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「坂城の100人」 第3回は男谷彦四郎思孝(燕斎) 

「坂城の100人」 第3回は男谷彦四郎思孝(ひろたか)(燕斎)(えんさい)です。
                                
 男谷思孝(燕斎)、1777(安政6)年〜1840(天保11)年、 は江戸後期、中之条代官をつとめた幕臣で能書家であり、名奉行といわれた人物です。
 旗本男谷平蔵忠恕の長子で、男谷(米山)検校の孫にあたります。 (米山検校は盲人としての最高位の検校に昇進し、旗本男谷氏の株を買い男谷検校となる) 
                  
 また、平蔵の三男が左衛門太郎惟寅(勝小吉)で、勝海舟の父です。
 したがって、思孝は勝海舟の叔父にあたります。
                                      
 男谷思孝(燕斎)は寛政12年(1800)に表右筆となり、「寛政重修諸家譜」や「藩翰続譜」の編修、韓聘書簡の写字などにあたります。
                  
 その後、文化10年(1813)から文政4年(1821)まで8年にわたり坂木、中之条代官をつとめ、文化11年には追分貫目改所と信濃一ヶ国総取締を兼任しています。
 文政4年には越後水原陣屋へ移り、その後、二丸御留守居役、西丸裏御門番之頭、そして、天保8年(1837)に小十人組頭をつとめました。
                   
 この間、勝小吉は文政2年(1819年)、兄の男谷燕斎を訪ね、坂城へ来ています。
                           
 勝小吉の「夢酔独言」によると、以前にも坂城へ来たことがあるようですが、以下のような記述をしています。
                     
 「18の年、また信州へいったが、その年は兄きが気色が悪くって(健康がすぐれず)、榊木という村の見所場の検見をおれにさせたが、一番悪処の場へ棹を入れて・・・」など村民にとって大変有利な検地を行なったそうです。
 これも勝小吉らしい裁きのようです。 その後、いくつかの喧嘩事を処理したことも記述されております。 誠に勝小吉の小気味よい行動が坂城中之条を中心にして書かれています。 
                             
 男谷思孝は、能書家としても有名で、燕斎と号したわけですが、師事する者が多く、中之条代官在任中に揮毫した書が坂城内外に数多く残されています(中條神社の扁額や甘泉の碑名なども)。
                     
男谷燕斎による 「甘泉の碑」
                    
中條神社の扁額 左に男谷思孝の名が見られる
                  
                     
 男谷思孝(燕斎)が後に養子とした男谷精一郎は温厚な人格者で 「幕末の剣聖」 ともいわれ、剣豪として名高く、宮本武蔵に匹敵するとも言われた人物です。
                   
 また、昨年、さかきテクノセンターで新春経済講演会の講演をしていただいた、経営思想家の田口佳史先生もこの男谷燕斉の縁筋にあたられるとのことです。
                   
 男谷燕斉の書が数多く坂城に残されております。
 いずれ、「男谷燕斉展」 を企画したいとも思っております。
                        
                         
 坂城町長 山村ひろし

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