13/01/30 04:56

「坂城の100人」 第4回目は 薄雲 太夫です。

 「坂城の100人」 第4回目は 薄雲太夫です。

 薄雲太夫 (源氏物語の「薄雲」ではありません)、 信州埴科郡鼠宿の玉井清左衛門の娘(玉井てる)は、元禄年間(1688〜1704)の太夫として有名を馳せた江戸新吉原京町一丁目の三浦屋の遊女で、同時代の高尾と並び名妓と称された人です。

 坂城出身のこのような有名な遊女がいたことに驚きですね。

 まだまだ不明な点が多く、識者の皆様方のご意見を賜れば幸いです。         

月岡芳年(明治8年)

                         

 とにかく、有名な遊女であり、可愛がっていた猫(玉)とともに多くの逸話が残っています。

 また、当時の吉原では同じ源氏名を何代にもわたって使っていたわけですが、別の遊女で江戸前期の、初代といわれている薄雲がいます。(但し、初代薄雲ではなく、高尾太夫であったとの説が有力。)

                       

 初代薄雲(高尾太夫) : 吉原京町1丁目信濃屋藤左衛門の抱えで、和歌をよくし、書に堪能俳諧に名あり、義侠心に富み、金銀にものいわせる客には目もくれなかったと言われた薄雲(高尾)がいます。

 この薄雲(高尾)は万治年間(165861)、仙台藩主第三代伊達綱宗の愛するところとなりますが、鳥取藩士島田重三郎に操を捧げて、半年におよぶも伊達綱宗には肌を許さず、3000両で身請けされたのちも意に従わず、ために一室に幽閉され,10日に10指を断ち落とす」と脅迫されても、なおかたくなに拒み、ついに殺されてしまったということです。

       

 

道哲和尚、高尾太夫の墓 

正面屋根の下にあるのが高尾大夫の墓で、向かって左手の座像が高尾の回向をした道哲和尚の墓です。右手の標柱には「二代目萬治高尾 轉譽(転誉)妙身信女」と刻まれています。(西方寺ブログより)         

 

                   

薄雲の墓 東京品川、妙蓮寺(山村撮影)

                   

 一方、坂城町出身の薄雲は猫が好きで、この溺愛していた猫(玉)が、命を賭して大蛇から主人薄雲を守ったという報恩談が残っていて、この逸話から招き猫が始まったとする説があります。

 (薄雲の愛猫、玉がいつでも薄雲に付いて来る。 厠へも一緒に入りたがることがあり、あまりにもしつこく、猫が薄雲に憑いたのではないかと思った三浦屋のものが、玉の首を切り落としてしまった。 ところが、切り離された首が厠の中へ飛んでいき、中に潜んでいた蛇の頭に噛みついた。 つまり玉は厠へ潜んでいた蛇から薄雲を守ろうとしていたということであった。 これを不憫に思った薄雲は玉を丁重に葬り、京都から伽羅(きゃら)の香木を取り寄せ、玉の像を作らせた。 これが招き猫の元となったという説である。)

 榎本其角の句に「京町の猫通ひけり揚屋町」があるほか、岡本綺堂の半七捕物帳に 「薄雲の碁盤」 という小説があり、薄雲と猫(玉)に関わる逸話が書かれています。

* インターネットの図書館、青空文庫より(以下のサイトで全文が参照できます)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1022_15044.html

                               

 薄雲と猫に関しては他にも多くの逸話、物語があります。 

 ・近世江都著聞集(きんせいえどちょもんしゅう)から「三浦遊女薄雲が伝 」

 ・烟花清談から「三浦や薄雲(あいしねこ)(わさはひ)のかれし事 」 など

                    

歌川広重 この猫の主人が薄雲のようです

                 

 坂城出身の薄雲は源六という人物に身請けをされるのですが、その証文が残っています。 以下、その現代語訳です。

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  元禄13年(1700年)の薄雲身請の証文

「薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。四郎左右衛門殿」

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なかなか、殊勝な証文です。

ただし、薄雲が350両という大金で身請けされた後、幸せな生涯を送ったのかどうかは不明です。

                              

 しかし、薄雲の死後、形見(実際には高尾太夫から受け継いだもの)といわれる打掛(裲襠 (りょうとう))が坂城の耕雲寺さんに収められ、それが現在では卓敷きに改められて、保管されているとのことです。(耕雲寺寺宝)

 私は現物は拝見しておりませんが、中嶋登 町会議員さんから写真を提供していただきました。

       寳物 高尾圓盡卓袱    

                                              

 また、浮雲の和歌が絵馬として上田市別所観音堂に額面となって残っています。

 歌:しき妙の枕に残るうつり香を我身にしみてひとりかもねん

                       

 薄雲についてはまだまだ不明の点が多く、あとで補足をしたいと思いますが、今回は坂城鼠宿出身の有名な薄雲太夫がいたということをお伝えします。

 以上、 「鼠」 出身で 「猫」 を愛した薄雲太夫のお話でした。

 皆様からご意見をいただきたく。

                  

*過去の「坂城の100人」をご覧になる場合は、画面右上の「記事から検索」に 坂城の100人 とインプットして検索をしていただくとすべての記述が出てきます。

         

                           

 坂城町長 山村ひろし

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13/01/19 04:01

「坂城の100人」 第3回は男谷彦四郎思孝(燕斎) 

「坂城の100人」 第3回は男谷彦四郎思孝(ひろたか)(燕斎)(えんさい)です。
                                
 男谷思孝(燕斎)、1777(安政6)年〜1840(天保11)年、 は江戸後期、中之条代官をつとめた幕臣で能書家であり、名奉行といわれた人物です。
 旗本男谷平蔵忠恕の長子で、男谷(米山)検校の孫にあたります。 (米山検校は盲人としての最高位の検校に昇進し、旗本男谷氏の株を買い男谷検校となる) 
                  
 また、平蔵の三男が左衛門太郎惟寅(勝小吉)で、勝海舟の父です。
 したがって、思孝は勝海舟の叔父にあたります。
                                      
 男谷思孝(燕斎)は寛政12年(1800)に表右筆となり、「寛政重修諸家譜」や「藩翰続譜」の編修、韓聘書簡の写字などにあたります。
                  
 その後、文化10年(1813)から文政4年(1821)まで8年にわたり坂木、中之条代官をつとめ、文化11年には追分貫目改所と信濃一ヶ国総取締を兼任しています。
 文政4年には越後水原陣屋へ移り、その後、二丸御留守居役、西丸裏御門番之頭、そして、天保8年(1837)に小十人組頭をつとめました。
                   
 この間、勝小吉は文政2年(1819年)、兄の男谷燕斎を訪ね、坂城へ来ています。
                           
 勝小吉の「夢酔独言」によると、以前にも坂城へ来たことがあるようですが、以下のような記述をしています。
                     
 「18の年、また信州へいったが、その年は兄きが気色が悪くって(健康がすぐれず)、榊木という村の見所場の検見をおれにさせたが、一番悪処の場へ棹を入れて・・・」など村民にとって大変有利な検地を行なったそうです。
 これも勝小吉らしい裁きのようです。 その後、いくつかの喧嘩事を処理したことも記述されております。 誠に勝小吉の小気味よい行動が坂城中之条を中心にして書かれています。 
                             
 男谷思孝は、能書家としても有名で、燕斎と号したわけですが、師事する者が多く、中之条代官在任中に揮毫した書が坂城内外に数多く残されています(中條神社の扁額や甘泉の碑名なども)。
                     
男谷燕斎による 「甘泉の碑」
                    
中條神社の扁額 左に男谷思孝の名が見られる
                  
                     
 男谷思孝(燕斎)が後に養子とした男谷精一郎は温厚な人格者で 「幕末の剣聖」 ともいわれ、剣豪として名高く、宮本武蔵に匹敵するとも言われた人物です。
                   
 また、昨年、さかきテクノセンターで新春経済講演会の講演をしていただいた、経営思想家の田口佳史先生もこの男谷燕斉の縁筋にあたられるとのことです。
                   
 男谷燕斉の書が数多く坂城に残されております。
 いずれ、「男谷燕斉展」 を企画したいとも思っております。
                        
                         
 坂城町長 山村ひろし

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13/01/08 13:00

「坂城の100人」第2回は 稲玉徳兵衛翁

「坂城の100人」第2回は稲玉徳兵衛翁です。
 
稲玉徳兵衛 1822(文政5)年〜1872(明治5)年
 
稲玉徳兵衛は、江戸時代の末に坂木村の山野を開墾し、坂木の農業を発展させた大恩人です。
坂木は耕地が少なく、千曲川沿いの田畑も洪水の度に流され、農民は苦しい生活をしていました。
徳兵衛は東方山地の大開発を提案し、嘉永6年(1853)、農民353人の署名を集め、村と代官所に許可を願い出ました。
開発に反対する一部の農民との争いなど多くの困難を克服して、広大な山野の開発を実現しました。(218ヘクタール)
また、横吹街道の掘削工事も手がけました。(完成は没後。初めての有料道路になる。) など坂城の重要施策に大きく貢献した方です。
安政3年(1856)、村人は徳兵衛の働きを讃え、平沢の開墾地に「昌言(まさのぶ)社」を建て、生きながらに神として祀りその恩に感謝しました。
徳兵衛の墓は、心光寺にあります。(50歳の若さで亡くなりました)
               
左:稲玉徳兵衛翁の墓(心光寺)、右:昌言神社
                         
                       
業績をまとめた『生きながら神と祠られた稲玉徳兵衛翁』には、亡くなる一週間前までの21年間の日記、58冊が残されていると記されています。
平成16年(2004)年には、徳兵衛の業績を後世に伝えていこうと町民有志により「稲玉徳兵衛翁頌徳伝承会」が設立され、命日の5月20日前後の休日に「偲ぶ会」を行っています。
               
(偲ぶ会について)                  
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/index.php?blogid=432&archive=2012-5-19
 
                           
坂城町の現状を見ると、徳兵衛さんが心血を注いで開墾された土地がどんどん「耕作放棄地」になっています。
                      
昨年から坂城町の新たな事業としてワイン事業を始めましたがこれも徳兵衛さんへの恩返しの一つでもあります。
 
                       
坂城町長 山村ひろし

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13/01/01 12:00

「坂城の100人」 第1回 源盛清

 これから「坂城の100人」 をご紹介しますが、歴史を追って順にご紹介するも退屈なので、登場はランダムになります。 ご了解ください。

                     

 「坂城の100人」 第1回は 源盛清 です。 

源盛清は平安時代後期の人で信濃村上氏の祖と考えられています。
生年、没年は明らかではありませんが、清和源氏の出身で、父は源仲宗、兄には惟清・顕清らがおります。
寛治8年(1094年)に起きた白河上皇呪詛(じゅつそ)事件により、仲宗親子は島流しとなり、盛清は信濃国村上郷(坂城町)へ配流されました。
これ以降、盛清らは村上郷を本貫地として信濃村上氏の祖となり、養子の為国から村上氏と称して、子孫はその後、信濃国内で屈指の勢力を有することとなります。
(村上郷に流されたのは盛清ではなく、兄の顕清とする説もあります。)
 
盛清は信濃配流後、6年後に再び京へ戻り、康和5年(1103年)には後の鳥羽天皇となる第一皇子(宗仁)の宣旨で宗仁親王の庁を取り締まる「御監」の役を仰せつかっています。
                        
更に白河上皇の院宣(天治元年:1124年)により、源俊頼が編纂した勅撰和歌集の『金葉和歌集』には、熊野を歌った盛清の作品が掲載されおります。白河上皇の時代でもあり、この歌人は同一人物ではないかと思われます。
当時、盛清が歌人としても評価されていたとすると素晴らしいですね。
                          
盛清の歌:「卯の花を音無河(おとなしかわ)の波かとて ねたくも折らで過(すぎ)にけるかな」
*卯の花はその白さから波にたとえられることがあるようですが、「音をたてずに流れる音無川の波かと思って、くやしいことに、折らずに通り過ぎてしまいました。」という意味のようです。 音無川は熊野川の支流で紀伊の国の枕詞だそうです。
                       
 また、国司補任索引資料によれば、源盛清は永久2年(1114年)に山城守にも任命されているようです。
                       
もっとびっくりすることの一つに「平家物語」にも登場しているのです。
橋本治氏の現代語訳「双調平家物語」の「祇園女御(ぎおんのにょうご)」によると、当時、15才の蔵人(くろうど)だった源盛清は白河上皇の寵愛を受けるのですが、兄の惟清の妻にも手を出した白河上皇との間で諍いが起こり結局は惟清の父、仲宗を含め親子5人が「太上天皇呪詛」の罪で流罪となったと記され「その後永遠に、都へは戻れなかった」となっています。
しかしながら、盛清については上述のように後日、許されて京へ戻ったようです。
これも、白河上皇が盛清に強い愛情を感じていたからなのでしょうか。
                        
以上、源盛清についてはまだまだ研究の余地がありますが、今回、私がこのブログに記述した、「坂城に流された盛清」=「御監の盛清」=「山城守の盛清」=「歌人の盛清」=「平家物語の盛清」だとするとこれは世紀の大発見になるそうです。
有識者のご意見を賜れば幸いです。
 
さて、最後に、昨年のNHK大河ドラマでも強烈な印象で登場した白河上皇と源盛清との強い絆、さらには、当時の坂城(村上)が京と強い関係があったことを思うと興味津々ですね。
                         
源盛清が坂城へ流されなかったら別の歴史が始まっていたかも知れません。
                          
                       
参考資料:「双調平家物語」(中公文庫 橋本治著)
       「金葉和歌集」(岩波書店) ほか
                            
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このような具合に、少しずつご紹介していきますが、坂城町の学芸員の皆さん、町の有識者の皆さんのご協力を得ながら進めていきたいと思っております。
また、誤りや追加の情報などございましたらこのブログにお書き込みいただくか、坂城町役場へご連絡いただければ幸いです。
                        
                                    
                       
坂城町長 山村ひろし

 

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