13/04/27 04:12

「坂城の100人」第12回目 江戸期に有名な女流俳人藤沢雨紅

「坂城の100人」第12回目は江戸後期に坂城が生んだ当時の有名な女流俳人藤沢()(こう)(秀子)です。
 
 
藤沢()(こう)(秀子)
                 
1767(明和4)年〜弘化2(1845)年
江戸時代後期に、坂城では数少ない女流俳人として名を成した藤沢()(こう)(秀子)がいます。
本名を秀子といい、坂木宿大門町の旅籠屋「大藤屋」の当主清蔵に嫁しました。
清蔵も貞雅と号する俳人でしたが、実力は雨紅に及ばなかったそうです。
雨紅は下戸倉宿の宮本虎杖に俳句を学び、享和元年(1801)の虎杖編の句集から俳句が掲載されるようになり、この後、内外の俳書に作品が数多く収録されていきます。
江戸の俳人小蓑庵碓嶺の俳書にも雨紅の作品が多数掲載されます。
天保4年(1833)に雨紅を訪ねた江戸の俳人大野景山は「婦人には珍しき俳人なり」と評しています。
60歳(耳順)になった、文政9年(1826)には、自句集『松蔭集』を刊行しました。これは坂城で刊行された唯一の句集であり、自句208首に雨紅と親交のあった俳人の句が掲載されています。
また、辞世の句(79歳で死去) 「散やけし 花ならまじる 日もあるに」 は満泉寺の墓に刻まれています。
               
「松蔭集」の所在が不明でしたが、私が偶然、長野県立図書館で発見し、鉄の展示館宮下学芸員の力を借りて調べています。
今回、その一部をご紹介します。
                       
「松蔭集」表紙
                   
「松蔭集」序文
                       
                     
「松蔭集序文」 (江戸の俳人小蓑庵碓嶺が記述)
                        
信濃のくに坂木の雨紅今年耳順(じじゅん:60歳)の春
を迎ひ君が代にとたひ(途絶え)澄べき水の色
を、くみて知りける山の春のな(名)と
古き世の御影を限なく歓びさゝれ石
盡せぬ千曲の流を汲て更級や
葛尾山の睦月の空をうつして
老のこころをなぐさめ月花の
冥加浅からずも自の句を撰みまた
英雄の句をも女手のたよわくも拾
ひ得てこれを酒肴にかえて賀莚を
ましけるの志目出度文政九年の
春の花とや言ん實や酒肴に
かえて並べたる発句の中々朽果
る世のあらざれば號は松蔭集
と呼ことしかり   碓嶺述
                    
              
「松蔭集」は自作の俳句が208句、その後に、江戸俳壇の大家を中心とした一茶を含む著名俳人9人の発句が続き、更に雨紅と仁井田(中村)碓嶺と八朗、3人の連句36首、雨紅と遠藤雉啄の連句18首、雨紅と碓嶺、如水の連句18首、そして、全国の俳人の発句100首という構成となっている大作です。
                
是非とも、この貴重な俳句集を再版したいと思っていますが、今回は、雨紅 自作の句集の始めと終わりの数句を掲載させていただきます。
                    
「松蔭集」の1頁目
                       
                     
「松蔭集」から初めの5句。(初春の句)
                
 ・元日やこころのはなのあさ朗(ぼらけ)
 ・元日や祝ふことさへありの侭
 ・親と子の無事を宝に花の春
 ・蓬莱や行義ただしく子はそだつ
 ・月雪や世の旅ころもきそはしめ
                  
                
「松蔭集」終わりの5句。(年納めの句)
                 
 ・小原女の柴には雨かみぞれ降
 ・友(共)に白髪(かみ)いだく迠(まで)を雪の様              
 ・行としを見に行頃やなごの海
 ・年の市挟莚売も一世界・・(挟莚:さむしろ)
 ・葛尾もとしのくれ行山路哉
                   
          
坂城町は素晴らしい歴史、芸術、文化の宝庫が山のようにあります。(一部はレア・アース化しているかも知れません。)
「松蔭集」についてもまだまだ不明な点が多く、今後とも継続して調査・研究していきたいと思っております。
                        
                
坂城町長 山村ひろし
 

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13/04/16 01:33

「坂城の100人」 第11回目 初代坂城藩主板倉重種

「坂城の100人」第11回目は初代坂城藩主板倉重種です。
                            
 以下、鉄の展示館宮下学芸員に記述していただきました。
 ちなみに、2代目(最後の坂城藩主)板倉重寛については、別途、掲載させていただきます。
 
坂木藩初代藩主「板倉重種」 
寛永18(1641)年〜宝永2(1705)年
                    
                       
坂城駅前にある「坂城陣屋跡」説明(坂城町教育委員会)
         
 
 徳川譜代の名門として名高い板倉氏は、江戸時代ここ坂城町に成立した坂木藩の藩主として、一時期この地域を支配した当地と大変ゆかりのある家で、今回紹介する板倉重種は、その初代藩主にあたります。
 
 重種を紹介する前に、まず、板倉氏と坂木藩について簡単に説明したいと思います。
板倉氏は、幕府草創期、西国大名対策や対朝廷政策の中枢を担った初代京都所司代板倉勝重が直接の祖となります。勝重の子孫はその後、4つの大名家と2つの旗本に分かれ、幕閣の最高位である老中や幕府の重役を代々つとめるなど、徳川幕府を支える重鎮として江戸時代を歩みました。
                                    
 その板倉氏のなかで勝重の二男である重昌を祖とする重昌流三代目の当主板倉重種が、天和2(1682)年2月、武蔵国岩槻(埼玉県岩槻市)から信濃国坂木(坂城町)へ国替えとなり、ここに坂木藩5万石が成立しました。当時、信濃国内で5万石といえば、松代、松本、上田に次ぐ所領規模であり、坂城町はその本拠地となったのです。
 しかし、翌年5月、重種は隠居し、5万石は2つに分割され、坂木藩は重種の長子重寛により3万石として存続することとなります。
 板倉氏は城の無い坂木の地で前代から使用していた坂木陣屋を政庁として支配を行いますが、20年後の元禄15年(1702)12月、板倉氏は幕府の命で坂木から陸奥国福島(福島県福島市)へと国替えを命じられ、ここに坂木藩の歴史は幕を降ろすこととなります。
 
 以上見てきたように、板倉重種の坂木藩主時代は僅か1年3か月という短い期間であり、40歳そこそこで隠居してしまった背景には大きな理由がありました。
 
 板倉重種は、重昌流二代板倉重矩の三男として寛永18(1641)年に生まれました。旗本の叔父重直の養子となっていた重種は、寛文12(1672)年、兄重良の廃嫡により跡継ぎとなり、翌年5月、父重矩の死により家督を相続し、上野国烏山(栃木県那須烏山市)5万石の藩主となります。
                    
 延宝5(1677)年6月、奏者番兼寺社奉行となった重種は、同8年9月、五代将軍徳川綱吉によって老中へ抜擢され、翌年2月には1万石の加増によって武蔵国岩槻藩へ国替えとなり、同年8月、綱吉の長子徳松付の老中=西丸老中を拝命しました。しかし、西丸老中就任の3ヶ月後、綱吉は重種の老中職を免じ、外出禁止の逼塞処分とします。そして、翌天和2(1682)年2月、重種は1万石を収公(没収)され、信濃国坂木への国替えを命じられ、蟄居(謹慎・外出禁止の処分)の身となります。
                          
 ここに坂木藩5万石が成立し、信濃六郡(埴科・水内・高井・佐久・小県・伊那)を本領として、上総国山辺・市原郡及び三河国幡豆郡の一部をその支配下におきました。
しかし、翌天和3年5月、重種は幕府に隠居を願い出ると、坂木藩5万石は重種の長子重寛に3万石、甥の重宣(兄重良の子)に2万石が分知され、坂木藩は重寛によって継承されます。
                         
 重種が老中を罷免され、「老中の城」として関東の要だった岩槻城主から無城の主へ急転していった理由は、重種の後継を巡る争いが原因でした。重種は、養子としていた甥の重宣ではなく、分家に出していた長男重寛を跡継ぎにしてしまったことから、家中が両派に分かれて争う御家騒動となり、それが原因で将軍綱吉の機嫌を損ね、重種が罷免されたといわれています。
 そのため、重種は自らが隠居して、家中を二分することでなんとか事態の収拾を図り、御家の安泰につなげたものと考えられます。
                   
 こうして、坂木藩は5万石から3万石となって再出発することとなりました。
                 
 (以上は、鉄の展示館 宮下修 学芸員の寄稿です)
                   
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 坂城町長 山村ひろし

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13/04/06 02:18

「坂城の100人」 第10回目 松尾芭蕉

 「坂城の100」も第10回目となりました。

 今回は大物の登場で、松尾芭蕉です。

 芭蕉も坂城に大いに関係があります。

 松尾芭蕉は、「更科紀行」にあるように、貞享5(1688)年8月15日に姥捨(現千曲市)に到着し、現坂城でも句を残しました。 更科には三日ほど滞在したようです。

 *更科はかつては更級郡として、明治初期には26村、1町を有する大きな郡でしたが、町村合併の結果、郡は消滅しています。 地域としては長野市の一部、千曲市の一部、坂城町の一部(村上)です。

                         

 (以下、 「笈の小文・更科紀行・嵯峨日記」:上野洋三編を参考にさせていただきます)

 芭蕉は貞享4年(1687年)10月、江戸を出発して伊賀へ向かいます。

 伊賀藤堂藩より 「今明年中に故郷へ帰り、役人共へ つらみせ可仕候」との命が出ていたためです。

 藤堂藩は他国に出て生活している領民に対して 「5年目には故郷に戻るよう」 命じていたのです。

 この命をうけ、芭蕉は伊賀上野に戻りその帰路、吉野、高野山、紀三井寺、和歌の浦、奈良を経てさらに大阪に入り、兵庫、須磨、明石を訪れています。

 さらにその後、京に入り、岐阜、大津にとどまり、瀬田の蛍を見て 「この蛍 田毎の月に くらべみん」 の句を残しています。

 この頃すでに、秋の名月を更科の姥捨山で見たいという気持ちが強くなったようです。

                 

 「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に吹きさはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人と云ふ。」

 (かの更科の里・姥捨山の名月を見ようということを、しきりに勧める秋風が、心の中に吹き騒いで、私の心を落ち着かさせない。同様に風雅心ゆえに浮かれ立ったのが、もうひとり居て、その名を越人という。)(越人:越智十蔵。尾張の蕉門)

                 

 貞享5(1688)年8月15日、芭蕉は、越人ととも姥捨山へ夜分、到着します。

 以下、更科の地に関する句を4句紹介します。

 まずは、越人の句から

 「さらしなや三よさの月見雲もなし」 

 *好天に恵まれて三晩も続けて素晴らしい月を見たようですね

                     

 芭蕉の句

 「俤(おもかげ)や姥ひとりなく月の友」

 *その場には姥はいませんが、姥を捨てた息子の気持ちが察せられるようなすごい感情が感じられますね。

                      

 「いざよいもまださらしなの郡哉」(いざよいも まださらしなの こおりかな)

 *姥捨山で素晴らしい名月を見た後、次の日の十六夜にもまだ去り難い思いで更科にとどまっていて、名残惜しさが強烈ですね

十六夜もまだ更科の郡かな」の句碑。

坂城町網掛の 十六夜観月殿 脇

「十六夜」の裏面

桃青(芭蕉の号)霊神

十六夜観月殿

                

                      

 「身にしみて 大根からし 秋の風」

 *坂城特産の「ねずみ大根(辛味大根)」を芭蕉が句に詠んでいるのがすごいですね。はたして、おしぼりうどん、あるいは蕎麦として食べたのか、大根をそのまま切り身で食べたのか不明ですが、姥捨を訪れた後、秋風の中いろいろ見にしむものがあったのだと思います。

坂城のねずみ大根(辛味大根)

おしぼりうどん

「おしぼりうどん」

 ?坂城町振興公社ホームページより                      

 

国宝・重要文化財(美術品)「更科紀行」
沖森本:芭蕉紀行文の現存唯一の草稿本
(文化遺産オンラインより)
                   

   

                                  

 坂城町長 山村ひろし

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