13/05/22 21:10

坂城の100人 第14回目は更科姫(伝承)!

 今までに何回か、坂城町子供謡曲教室の紹介をし、子供たちが「紅葉狩」の練習をしていることも掲載しました。

 ご存知のように、「紅葉狩」は能、歌舞伎の有名な題目で、「平維茂が戸隠山で、鬼女(更科姫)にめぐり逢い誘惑されかかるが、ついに撃退する」という物語ですが、坂城での「更科姫」に関わる伝承はかなり違います。

 坂城町での更科姫は村上義清の家臣の娘で義清を助けるスーパー少女として長い間、語り継がれていました。

 最近ではあまり話されることもなくなってしまいました。

 実在の人物をモデルにしています。 彼女も語り継がれなけらばならない一人としてご紹介します。

 以前ご紹介した「ふるさと探訪」から小泉長三(1878〜1941)作の小説(昭和9年「幼年倶楽部」)を転載させていただきます。

                      

 『更科姫』

                 

 信濃(長野県)葛尾の城主、村上義清が、山狩をしてのかへり道、おほくの供をつれて城下へはいってくると、むかふの方でワーッといふさわぎ。

 「あぶねえぞ??あばれ牛だッ。」「にげろ、にげろ、角にかけられるな。」

 ワイワイと、にげまどうふ わうらいの人々をおひまくり、大あばれに、あばれてゐる一頭の大牛。

 いきほひはげしく角をふりたてて、行列の中へあばれこみました。

 「それ、おさへろ。」 と、いったが、どうしておさへるどころか、お供の人たちはごろごろ、ばたばた、片っぱしからたふされ、角にはねとばされたり、ひづめにふみにじられたりして、行列はどっとくづれたちました。

 いまや、義清の馬前ちかく、牛がをどりかからうとしたとき、そばの軒下から、まりのように、かけだした一人の少女、牛のかしらへとびついたと思うと、両手で角をむんずとつかみ、「えい??えい??。」 左右へ、ぐらりぐらりとふったとみれば、ごろりと牛をねぢふし、首すじをしっかり足でふみ、「だれか、つなをかけてください。」 という聲に侍どもは、よってきて牛につなをかけました。

 少女は年はまだ十二、三の、かはいい子供ですから、義清はおどろきながらたづねました。 「そちはなに者のむすめじゃ。」 「わたくしは楽岩寺右馬之助のむすめ、更科と申します。」 「いくつぢゃ。」 「十二でございます。」 「おお、右馬之助のむすめか。むかしの巴御前や、近江のおかねにもまさる大力ぢゃ。ほうびをつかわすから、城へまゐれ。」

 義清は更科をつれて城へかへり、父楽岩寺右馬之助をよびだし、更科のはたらきをほめて、たくさんのほうびをたまはりました。

                  

 そのころ、村上家に牧野大九郎といふ悪いけらいがありました。 敵軍武田信玄のけらい、馬場信房と心をあわせ、主人義清の子、八歳になる竹松をぬすんで葛尾の城をにげだし、馬場信房のやしきに身をかくしました。

 信房は、竹松をとらへておいて、義清にむかひ、降参しなければ、竹松をころしてしまふぞ、といってきました。 義清は竹松をころすならころせ、降参などするものかと、使をおひかえしてしまひました。

 ある日、馬場信房のやしきでは、信房の奥方が、京都からきたといふ舞姫をよんで、その舞をみることになりました。

 舞姫はこのごろこの地へきたもので、名をかつらといひ、年は十二、三歳であるが、めづらしく舞が上手なので方々のやしきへよばれて、舞をまひました。それをきいて、信房の奥方もみたくなったのでありました。

 廣いざしきの正面に奥方がひかへ、そのそばに二葉といふ、十歳ばかりのお姫さまがならび、左右には、大ぜいのこしもとや女中がすわってゐます。

 そこへ、よばれたかつらは、まだ小さいかはいい子供です。奥方は、さっそく、「なんなりと舞うてみや。」、といひました。

 かつらは、舞扇をとって、うたひながら舞ひはじめたが、その聲のうつくしさ、さす手、ひく手のあざやかさ、おとなもおよばぬ上手さに、みな、われをわすれてみとれました。

 かつらは舞ひながら、奥方のそばちかくすすんだと思うと、ばらばらと二葉姫のそばにかけより、姫をかるがると左の小わきにかかへて、きっとあたりをみまはしました。 「あッ、姫をどうしやる。」 「あれッ、お姫さまを??。」

 奥方はじめおつきの人々が、おどろいてたちかけましたが、気がついてまたびっくり、二葉姫をかかへてたった、かつらの右手には、きらりと光る短刀が握られ、そのきっさきが、二葉姫ののどにむけられてゐます。

                    

 目にもとまらぬはやわざで、二葉姫をうばったかつらは、「みなさん、手だしをなさると、お姫さまをころしてしまひますぞ。 わたしは、けっしてお姫さまを、どうしようといふのではありません。 奥方が、わたくしのねがひをきいてくだされば、お姫さまはおかへし申します。」

 「おお、どんなねがいでもきいてやる。 さあ、姫をはやくかえへしゃ。」

 「わたくしのねがひといふのは??こちらにとらはれてゐる、村上竹松さまをかへしていただきたいのでございます。」

 「や、や、村上の竹松をかへせといふか、そちはなに者ぢや。」

 「かつらと申したのはいつはり、まことは、村上義清のけらい、楽岩寺右馬之助のむすめ更科と申すもの。 このお姫さまは、大切におあづかりいたしてまゐり、竹松さまとひきかへに、おかへし申しますから、どうぞ、葛尾へ竹松さまをおかへしくださるやう、殿さまに申し上げてくださいませ。」

 そのとき、女中のしらせによって、侍どもがかけつけたが、二葉姫ののどへ短刀をつきつけてゐるので、手のだしやうがありません。 

 更科は、八方へ目をくばりながら、しづかにざしきの外へでてゆきます。

 「門をしめろ。」 「表へだすな。」 更科のまはりをとりまいた、侍どもが、外へだすまいと思って、表門をしめさせてしまひました。 「さあ、おどき。どかぬと、かうしますぞ。」と短刀を二葉姫のむねでぴかぴかさせながら、むらがる侍の中をおし通り、やうやく表門のところへきてみると、門がぴったりとしまってゐます。 「こんな門などなんでもない。」 にっこり笑った更科は左に二葉、右に短刀、両手がつかへぬので、門の柱に肩をおしあて二,三度ぐらぐらゆすぶると、みあげるような大門ががらがらどしんと、たふれてしまいました。 何百人力かもしれぬ更科の力に、みなきもをづぶして、もう、おしとめようとするものもありません。 とうとう二葉姫は、更科のため葛尾城へつれてゆかれてしまったので、馬場信房もしかたなく、竹松を村上義清にかへして、二葉姫を、かへしてもらいました。 (をはり)

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 坂城町長 山村ひろし 

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13/05/10 05:37

坂城の100人 第13回目は2代目坂城藩主板倉重寛

 「坂城の100人」13回目、今回は先日掲載しました初代坂城藩主板倉重種に続いて、2代目(最後の)坂城藩主板倉重寛についてです。

 前回同様、鉄の展示館宮下学芸員に記述をお願いしました。
                        
 
坂木藩2代藩主「板倉重寛」 
  寛文9(1669)年〜享保6(1721)年
 
 前回は、江戸時代この坂城町に大名が拠点を構えた坂木藩があり、その初代藩主板倉重種について紹介しましたが、今回は、重種の跡を継いだ2代藩主板倉重寛についてお話しします。
 
 父重種から坂木藩を継承した板倉重寛は、寛文9(1669)年に生まれました。4歳の時、旗本である祖父重矩の弟板倉重直の養子となりましたが、天和元年(1681)9月、実家に戻り嫡子となります(これが原因で家中は重寛派と重種の養子重宣派に分かれ御家騒動に発展)。
 天和3年5月、父の隠居で重寛は坂木藩3万石を相続しましたが、この時重寛は弱冠14歳であり、父と同様、坂木陣屋を本拠として藩政を進めました。
坂木藩3万石の所領は信濃国(現坂城町から千曲市、長野市、上田市、須坂市、中野市、小布施町、飯綱町、信濃町、箕輪町、それぞれの一部)を中心に、板倉氏の出身地三河国(愛知県西尾市)や上総国(千葉県東金市)の一部にも及びました。
 貞享元年(1684)2月、重寛は元服し、翌年8月、初めて坂木の地へ入部しました。その後、重寛が坂木へお国入りしたのは元禄2(1689)年2月が確認できます。2度目のお国入りをした元禄2年、重寛は亀井茲政の娘を妻に迎えました。
元禄7年3月、重寛は大坂加番(大坂城の警備担当4名の一人)を命じられ、同12年にも同職を命じられています。
 重寛は若年ながらも、道理を弁えた才能ある人物で、学問と武芸を共に励み、性格も素直で情が厚く、柔和な人柄で、領民にも哀れみの心を持っていました。さらに道理に叶った処罰と、法に基づいた審議により、君主として高い評価を得ていました。
 
 板倉重寛が治世を進めた拠点は坂木陣屋です。坂木陣屋は、前領主の越後高田藩松平光長時代に代官長谷川氏が使用していたものでした。陣屋は現在の坂城駅前横町通り南側一帯にあり、その敷地は900坪で建物は110坪程度、更に板倉時代には多くの家臣団を収容するため、陣屋の東に家臣屋敷が造成されました。当初5万石、その後3万石となった板倉氏の家臣は相当数の規模であったことが想像され、坂木は陣屋を中心とした城下町ならぬ陣屋町の街並みが形成されました。
 
 板倉氏が坂木を本拠地にして21年目の元禄15(1702)年12月、重寛は、江戸城において将軍徳川綱吉の前で福島城主(福島県福島市)=福島藩3万石への転封を命じられ、陸奥国が本領となりました。更に江戸城での控の間が、菊之間(三万石未満の譜代小大名の詰所)から雁之間(城持ちの譜代中大名の詰所)へと昇格しました。
 陣屋支配から城持ち大名に復帰することは、藩主重寛及び家臣にとって宿願であり、そのため幕閣に対し藩をあげての運動が展開され、遂に実現したのです。板倉氏以前の福島城は、譜代大名堀田氏が10万石、その前も譜代本多氏15万石の居城でした。
 元禄16年1月から福島城受け取りの準備が進められ、4月には幕府代官から城と領地を受け取りました。ここに坂木藩の歴史は幕を降ろすこととなり、以後、坂木は幕府直轄領(天領)となって、引き続き、坂木陣屋は幕府の代官陣屋として半世紀の歴史を歩むこととなります。
                          
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 坂城町長 山村ひろし

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