13/06/23 02:38

坂城の100人 第17回目は永井直治

 永井直治(ながい なおじ、1864年〜1945年 旧姓 柳澤直治)は坂城町中之条出身の日本基督教会の牧師・聖書翻訳者として有名です。

 永井直治は柳澤与忽、しげ、の次男として元治元年(1864年)に中之条で生まれました。
 その後、塚田家の養子となり、塚田直治として明治23年(1890年)に明治学院神学部を卒業し東京浅草協会の牧師となりますが、明治24年(1891年)には柳澤家へ復籍し、柳澤直治を名乗ります。
 さらに2年後の明治26年(1896年)には埼玉県の永井家の養子となり、永井直治となり聖職者として活動します。
                  
永井直治の写真
(柳澤知夫さん提供、永井直治は柳澤知夫さんの大叔父にあたります)
                    
 
 聖書には多くの系統があります。
 明治になって、日本でもいくつかの系統の聖書が使われていたのですが、永井直治が翻訳をしたのは、エラスムス(1466年〜1536年 オランダの哲学者・宗教学者)が1516年に出版したと言われるギリシャ語本文で「正統派本文」と言われるものです。
              
 永井直治はこの原点と言われるギリシャ語本を翻訳し、昭和3年に自費出版をしました。
                           
「新契約聖書」の表紙
                     
                      
 この聖書は「永井訳新約聖書」と言われ、内村鑑三、尾島真治、中田重治などが推奨し、内村鑑三が「新契約聖書への序言」を書いています。
                                
                    
内村鑑三の「序言」    
                    
                                        
 また、中田重治は、これを一層普及させるためには、会社を作る必要があるとし信徒の有力者たちに呼びかけ、株主を募集し、日本聖書会社という株式会社を設立しました。
 そして、「新契約聖書」の一冊50銭の廉価版が出版されました。
                              
                 
 さらに、昨年、2012年には以下の新刊が再発行されました。
再刊された新契約聖書(2012年)
                                        
 
  以上、明治、大正、昭和と聖職者・研究者・翻訳者として活躍した坂城町中之条出身の永井直治のご紹介です。        
 
         
                       
                     
 坂城町長 山村ひろし

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13/06/13 21:53

坂城の100人 第16回目は甘利八右衛門

「生きながら神と祀られた甘利さん」
 
以前、「生きながら祀られた稲玉徳兵衞翁」のお話をしました。
                        
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30219
 
もう一人の「生きながら祀られた」のが甘利八右衛門です。
               
甘利といえば上田原の戦いで武田晴信を守り村上義清のために討ち死にした甘利虎泰(あまり とらやす)が有名ですが、この甘利八右衛門にどのようにつながるのか不明です。 どなたか教えていただければ幸いです。
                  
尚、甘利明 経済再生担当大臣のプロフィールには:                  

「先祖は武田信玄の末裔です (本当)。信玄の親戚であり、重臣 No2 甘利虎泰 (あまりとらやす) が我が先祖です。」 と記されています。

           
さて、甘利八右衛門さんですが、坂城町中之条にある葛尾霊園の真中に位置する老松の根本に「甘利社」という祠があります。
              
       
「甘利之社」
                  
甘利社に祀られている甘利さんは、江戸時代の末、中之条陣屋の第二十四代の代官、甘利八右衛門のことで、名代官の一人として知られています。
                  
甘利代官の在任は、文久3年(1863)から慶応2年(1866)の足かけ4年でした。
                       
甘利代官は、領内の産業を振興するために中之条牧の内一帯の開拓を進めたこと、中山道岩村田宿・小田井宿への助郷(手伝いの人足)の減免を幕府に働きかけて実現したことで大いに領民から感謝され慕われました。
そして、住民から神として祀られました。
                     
中之条の人々は甘利さんのお宮の前で毎年お祭りをしてきました。
お祭りには、重箱に煮しめを入れて持参し、村人総出でというほど盛大であったといいます。
                     
                  
甘利八右衛門はその後も異動を繰り返し、慶応3年7月には出雲崎代官に転出し、江戸幕府最後の出雲崎代官となりました。
                
また、『続徳川実紀』「昭徳院殿御在坂日次記」慶応2年2月23日の記録によれば、八右衛門の次男で別手組出役の甘利謙次郎が、孟子ならびに孫子について徳川家茂の御前で講釈をしたことが記されています。(大阪で、年齢は十三歳。別手組とは日本に在留する外国行使などを警護する組織)
なお、兄の徳太郎も別手組に属し、後に北海道開拓使となったそうです。
 
激動の江戸末期の時代を生きた、甘利八右衛門、徳太郎、謙次郎、親子のその後の消息は詳しくはわかりませんが、甘利徳太郎(後知)がエトロフ島を測量をしたという記録と地図が北海道大学の資料にあります
                     
                             
                          
これには「大日本開拓使所轄」とあり、「明治七年九月十四日、駿州、甘利後知識」と記されており、エトロフ島を描いた墨書図です。凡例によると甘利後知が自らこの島を踏査して作製したとあります。(北海道大学資料)
                       
甘利一家のその後についても興味はありますが、今回は 坂城町中之条で大切にされてきた ”生きながら祀られた行政官 甘利さん” の存在を記しました。
                 
                             
 坂城町長 山村ひろし
 

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13/06/02 00:15

坂城の100人 第15回目は 沓掛なか子です

 先日、江戸末期にその名を知られた俳人、藤沢雨虹を二回にわたってご紹介しました。
               
                    
                       
 今回は同時期に、歌人として、学者として活躍した沓掛なか子さんです。
                                             
 沓掛なか(仲子)
 1749(延享6)年〜1829(文政12)年
                     
 沓掛なか子は、江戸時代の中頃に、坂城町で和歌や国学を先駆けて研究した人物です。 以前ご紹介した藤沢雨虹さんより20歳くらい先輩にあたります。
                      
 なか子は、更科郡今里村(長野市川中島)の内村家に生まれ、小さいころから国文の教養が深かった祖母の影響を受けて育ちました。
 この教養人であった祖母の影響により5歳のころには「百人一首」を暗唱できるくらいになっていたそうです。
                       
 16歳で小県郡塩尻村(上田市)の沓掛家に嫁ぎますが、後に夫、道秀の母の実家のあった坂木横町に移り住みます。(なんと、道秀の母の実家とは以前ご紹介した稲玉徳兵衛さんの家です)
 夫の道秀を助け酒屋(山根屋)を経営し、また質屋も営みました。
 天明3年(1783)の凶作の時には、多くの人々の手助けをしたそうです。
 道秀の死後、四男ニ女の子供を抱えながら長男の道寛を励まし、家業を盛り立てました。。
 有名な逸話として、道秀の法要の時、白衣を着て真っ先に上座に座ったので、親戚の者がその訳を聞いたところ、仲子は「妻は自分である。主賓は亡き夫なのだから、自分がそのとなりにすわるのに何の遠慮がいるだろうか。」と答え、そこにいた人たちはみなその考え方に感心したという。
                  
 なか子は生涯作家として努力し、わが国の古典を研究し、歌集・歌論・子女教育論など多くの著書を残しました。
                       
                
「千曲川 ちゞにくだ くる 波のうへに うつらふ月の 影の すゞしさ」
(田町 十王堂前にある碑)
                
                   
 沓掛なか子の研究には多くの方が取り組まれていますが、もう少し体系的に取り上げられるべき第一級の人物であると思います。
                   
                  
                
前田淑著 左:近世地方女流文芸拾遺
       右:江戸時代女流文芸史【旅日記編】
                   
 「近世地方女流文芸拾遺」では沓掛なか子の「朧夜物語」を詳しく紹介しています。
 この本は、なか子が77歳(1825年)の時に、和歌に対する意見を物語の形で書き上げたもので当時の坂木の一商家の主婦が記述したことに驚きと敬意を感じます。
                          
 
「朧夜物語」(原本)の表紙
                          
 また、「江戸時代女流文芸史【旅日記編】」では、なか子が三男の淵魚をつれて「秩父34番観世音巡礼」へ出発し、さらには江戸・江ノ島・鎌倉・日光にもあしを伸ばした大旅行記を紹介しています。(「東路の日」)  
                 
 「東路の日記」については、もろさわようこ が「信濃のおんな」でまた、永井路子が「旅する女人」と「歴史をさわがせた女たち」(庶民編)で紹介しています。
                         
                      
                  
「東路の日記」表紙と1頁目
                    
 
なか子は81歳で亡くなりますが、80歳の年に以下の和歌を残しています。
    
                       
                
「米よりは男ざかりぞ 我が庭の 梅も桜も我が物にして」
                  
                                    
 死の前年でも気力充実していたようですね。
           
 先日の藤沢雨虹を始め沓掛なか子などなど坂木の女性陣は素晴らしい。
 さらに、いろいろ調べたいと思っています。
               
 *上記のうち、原本の写真は前副町長の柳澤哲さん、鉄の展示館宮下学芸員が数年前に資料調査の際に撮影されたものを拝借しました。
                    
          
 坂城町長 山村ひろし

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