13/08/31 01:18

坂城の100人 第23回目は佐藤嘉長

 坂城の100人 23回目、今回は再び江戸時代に戻り、「常山隄」を構築した、佐藤嘉長です。

 嘉長は当時有名な河川管理の技術者だったようで、坂城町以外でも河川改修に関して佐藤嘉長の名を見ることができます。 (静岡県富士川近くの水神社にある「不儘河修堤碑」など。)

                    

 まず、「常山隄」の概略を説明します。(坂城町教育委員会、常山隄碑説明資料から)

               

            

(説明文)

 「天保12年(1841年)の大洪水でこの地籍の耕地は壊滅に瀕した。

 幕府は、代官所(代官:石井勝之進)を通じた農民の復旧の請願を受け、直ちに佐藤嘉長を派遣した。 嘉長は5年の歳月を費やして弘化2年(1845年)に彼の命名になる常山隄を完成した。

 その工法は、川筋に対してほぼ直角に突出し長さ300メートル、基礎を大石で築き、堤端は畳石という巨岩を置いた堅牢無比の構築であった。 そのため千曲川の流路は西方へ移り、広大な耕地を守ることができた。

 堤上には祠を立て、毎年祭りの行事として村人それそれが大石を水中に投じ堤端を補強することとした。

 孫子の兵法書によれば、常山にすむ蛇は頭を打たれれば尾が、尾を打たれれば頭が、それぞれを救うという故事から、この堤も洪水がどこをついても崩れない、と嘉長は説いた。

 村人は嘉長の功績と常山隄の由来とを永く後世に伝えるためこの碑を建立した。」 

 

 次に、佐藤嘉長が名づけた「常山隄」について述べます。

                     

 「常山」は孫子の有名な戦略論の「九地」の中に出てきます。

 孫子は戦には戦場に応じた戦い方があるとして、「九地」、九つの地形に分けた戦い方を挙げています。

 それは、「散地」、「軽地」、「争地」、「交地」、「衢地」(くち)、「重地」、「圮地」(ひち)「囲地」、「死地」があるといっています。 各々についてここでは詳しく説明はしませんが、兵士が機敏に対応することに大切さを説明するために 「常山」の蛇について説明しています。

                   

 「常山の蛇」

 故善用兵者、譬如率然。率然者常山之蛇也。撃其首則尾至、撃其尾則首至、撃其中則首尾倶至。

 故に善く兵を用うる者は、譬えば率然の如し。 率然とは常山の蛇なり。其の首を撃てば則ち尾至り、其の尾を撃てば則ち首至り、其の中を撃てば則ち首尾倶に至る。 

 そこで、兵士たちをうまく統率する者というのは、たとえば卒然のようなものである。卒然とは、常山にいるという伝説上の蛇のことだ。

 その蛇の首を攻撃すると尾が迫ってくる。尾を攻撃すれば頭がくる。胴体をせめれば頭と尾が同時にかかってくる。

 ということなのですが、さらに孫子は、この常山の率然という蛇のように兵士を統率できるのかという例として挙げているのが 「呉越同舟」 という言葉です。

 つまり、「呉」と「越」のように敵対している国の兵士が同じ船に乗り合わせ、暴風に出会い、船が危ないとなればこの呉越の兵士が否が応でも左右の手のように助け合うことになる。 このように一致団結できるような用兵策が重要であるといっています。

                      

常山隄の現在(平成25年8月)

                   

昭和7年の常山隄

                       

常山隄碑                 

                       

常山隄の図(中央縦の四角い部分が常山隄中心部)

 右のほうが千曲川上流で、洪水時に常山隄に直角にぶつかり図の下方へ流れ町を保護する。

                  

 以上、常山隄を作り長く村民に慕われた河川工事技術者 佐藤嘉長の話でした。

                          

 坂城町長 山村ひろし              

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13/08/20 04:48

坂城の100人 第22回目は 村上義光(よしてる)

 坂城の100人 第22回目は村上義光(よしてる)公です。

 たまたま、先日(8月16日)、昭和7年の絵葉書について触れましたが、これが村上義光公600年祭の際に作られたものであることを述べました。

                                 

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=33112

                       

 今回はこの村上義光公について記述します。(坂城町「ふるさと探訪」から引用記述します。)

 村上義光、義隆親子について、戦前では国定教科書に記述されていたほど有名な人物でありました。

 義光公の概略は以下のとおりです。

                       

 村上義光(よしてる)()

 生年不明〜1333(元弘3)年 
 信濃村上氏の一族。村上信泰の子で通称を彦四郎と称したが、後に左馬権頭に任じられた。
 元弘の変に護良(もりよし)親王に従い、南都から紀伊国十津川に逃れてこの地の土豪を頼ったが、北条氏の命をうけた熊野別当定遍の探査を避けて十津川を出て後に吉野山に入って幕府軍の攻撃を防いだ。
 元弘3年(1333)年閏2月1日吉野城は落ちたが、この時義光は子の義隆とともに親王の脱出をはかるため、親王の身代わりとなって敵の目前で壮烈な自害を遂げた。
                          

 また、「太平記」にはその自害の状況が次のように記述されています。

 『「われこそは大塔宮護良(もりよし)親王である。 今ここに自害するから、最後のありさまをよく見てお前たちが武運尽きて、腹切るときの手本にせよ。」と大声で叫んで腹一文字にかき切り、返す刀を口にくわえてうつ伏せになって息絶えた。 この間に大塔宮は天河村の方に落ちのびてゆくが、父とともに討死にしようとして父に諫められた村上義隆は、なおも追いくる敵勢を防いで満身に傷を負い、小竹の藪ににかけこみ割腹して果てた。』

                     

「太平記」 巻第七より(國學院資料より)

                    

 戦前の歴史、国語の教科書には「村上義光」「錦の御旗」の題名で取り上げられ、全児童の学ぶところでありました。

                     

村上義光 『前賢故実』より(ウィキペディア)

敵方に奪われた御旗を取り返す

                    

吉野山にある村上義光の墓(吉野観光ガイドより)

                   

 しかし残念なことに皇国史観のイデオロギーによる忠君愛国の事例として強調されてしまった。 戦後はその反動で忘れられてしまったが。「太平記」の文面をありのままに理解することが大切である。(「ふるさと探訪」より)

村上小学校の裏側に立つ歌碑

「死での山こゆるも嬉し天照らす神の遠裔(みすえ)の皇子(みこ)となのりて」

揮毫は東郷平八郎

                 

 また、村上小学校の校歌の第2番では 「芳野の山の 花と散り」(村上義光、義隆親子について)、さらに 「越路の雪に 埋みても」(村上義清) とあり、いまだに歌い継がれています。

                   

村上小学校校歌               

作詞 浅井 洌  作曲 青木 友忠

  一 源清く 末遠き
    千曲の川を 前にせる
     村上むらは 所がら
     人の心も すなおにて
     かせぎの道に いそしめば
     学びの業も 栄ゆなり

  二 芳野の山の 花と散り
     越路の雪に 埋みても
     知るきその名は 世に絶えず
     残る古城に み社に
     今も言いつぎ 語りつぎ
     
ありし昔を しのぶなり

  三 千曲の水の 清ければ
     さやけき月の 影ぞ澄む
     人も心の 正しくば
     やがてそうらん 身の光
     花の朝も 月の夜も
     励め学びの 窓の友

                       

                            

 坂城町長 山村ひろし

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13/08/04 01:14

坂城の100人 第21回目は吾妻銀右衛門

 坂城の100人、21回目は小網地区で新田等の開発を行なった吾妻銀右衛門です。
 (本稿は、文化財センター学芸員の時延武史さんに纏めてもらいました)
                      
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吾妻銀右衛門 享保7年(1722)頃〜寛政7年(1795)頃
 
初代銀右衛門は、鼠宿村の吾妻彦右衛門の子として生まれました。吾妻家は有力な百姓で、村役人も勤めていました。
 
安永3年(1774)から、鼠宿村の忠左衛門・孫右衛門・又右衛門と協力して小網で新田開発を始めました。開発を行ったのは、今の小網公民館の西側に広がる谷地(小網沢)で、山神・藤之木・柳沢・菖蒲沢・小平・木戸口・舟久保・鍛冶山・五林原・西山の10か所です。
                
                             
 小網沢地区
                        
地形を見ても分かるとおり、「新田開発」とは言いながらも、水田に適した場所ではなく、実際は畑地の開発でした。その上、傾斜の急な斜面地であったため、植え付けた作物が大雨で度々流されてしまいました。そこで思案の末、北上州(群馬県)から「広葉ワセ」という品種の桑苗を取り寄せて植え付けたとのことです。この桑が開墾地と相性が良く、根も強くはり、耕作地が雨に流されることも無くなりました。この事に力を得た銀右衛門達は養蚕業に精を出し、さらには蚕種業まで手掛けるようになり、相当の利益をあげるようになりました。新田開発の成功した村では凶作の困難も租税滞納も無く、開発に係る借金も返済し、非常に安定したそうです。
 
開発当初、初代銀右衛門は鼠宿村から千曲川を渡って小網沢まで通っていましたが、天明2年(1782)頃に開発地内の舟久保に移転しました。現在、杉林の中に残る石垣が屋敷跡です。最大で5m程の高さがあります。隅角部分は、長方形に加工した石材を短辺と長辺を交互に積み上げていく「算木積み」という技法が用いられています。これは城郭の石垣に多くみられる技法で、経験を積んだ石工がたずさわっていたことがうかがわれます。当地がかつて松代藩領であったことから、松代周辺から職人がやってきたのでしょう。
                   
                  
昭和20年代の写真、中央下に大きな石垣
                                        
                   
               
かつての入口(石門)
                  
                  
石垣を下から見た状況                
                       
 
屋敷跡から北へ50mほどの所に銀右衛門の墓があり、自然林に返りつつある、かつての開墾地を静かに見つめています。
                     
                
銀右衛門の墓
                  
 
初代銀右衛門による新田開発が軌道に乗るまでは大変な苦労があったのでしょうが、水田を開発するより、桑畑を開いて養蚕を行う方が、はるかに富を生み出すことができると確信していたからこそ、農業には不向きな小網沢(実際に、現在では耕作されていません)にあえて挑戦したものと思われます。
 
現在を生きる我々の豊かな生活の礎として、吾妻銀右衛門の新しい産業を切り開く先見の明と、血の滲むような努力があった事を忘れないでいたいものです。
                       
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坂城町長 山村ひろし
 

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