13/09/25 12:01

坂城の100人 第25回目は塚田善作です

 坂城の100人 第25回目は塚田善作さんです。

 あまり、この名前に馴染みが無いかも知れませんが、坂城町の県宝 「格致学校」 の建設を進めた人物です。

 私が坂城町で大変大きな感銘を受けたものの一つが「格致学校」 の存在です。

 格致学校の校舎は明治11年(1878年)に建設されましたが、松本の開智学校、佐久の中込学校に続いて長野では3番目に古い学校です。

格致学校

長野県宝 格致学校

                                                        

 格致は四書五経の「大学」の言葉、「格物致知」 からとった名前ですが、「物事の本質を極め知識を極める」 ということです。

 この「格致」を掲げ、現在に至るまで学校を大切にしてきた坂城の先人に大いなる敬意をはらいたいと思います。

 塚田善作は天保14年(1843年)、中之条に生まれました。

 明治9年(1877年)、33歳のときに格致学校の執事(責任者)に任ぜられ、校舎の新築に努力しました。

 御堂山の官有林の払い下げを受けて、これを工費にあてて格致学校が建設されました。

 この当時、鼠宿と新地村には「精成学校」、金井村には「金井学校」、坂木村には「坂木学校」、また、上平村、網掛村、上五明、力石村、新山村、上山田村の地区で「六郷学校」が作られましたが、各々、寺院を利用したもの、民家を借用したものなどが一般的でした。

 新たに校舎を新築する場合に必要な巨額の建設費用は地元の人々の募金を募って建設されました。

 当時の人々の教育にかける熱意には頭が下がります。

 格致学校は、当初は西念寺を仮校舎として発足し(明治6年 1873年)、教室が手狭になったため、隣接地の一行寺本堂を改修し移転しました。(明治7年 1874年)

 明治10年(1877年)には県に増築願いを提出し工事に入りましたが老朽化がひどい状態であったことから、新築に変更されました。

 明治11年(1878年)には現存の校舎とほぼ同じ建物が完成します。

 明治12年の生徒数は140人、教員数は6人で当時の就学率は63%とのことです。

 明治19年(1886年)には小学校令が出され、中之条村と南条村を合わせて埴科郡第一番小学校となり、南条小学校と呼ばれるようになりました。

 この段階で「格致学校」という名称は使われなくなりました。

 その後も学制変更などのため校名がしばしば変更されましたが、127年後となった現在でも、「格致学校」の名前と校舎が保存されており、誠に素晴らしいことであります。

 教育に対する坂城町の人々の思いに改めて敬意を表します。

 

格致学校の扁額 創立当初のもの

                     

学校増築の願書 但し、増築ではなく新築となる

                  

学校内教室の風景

                    

「塚田善作翁之碑」

               

 格致学校では折々に種々のプログラムを実施しております。 ぜひ、お立ち寄りください。

                      

 坂城町長 山村ひろし  

カテゴリ[ 4.坂城の100人]   コメント[0 ]   トラックバック[0] 

13/09/09 01:05

坂城の100人 第24回目は中島銀右衛門

 坂城の100人 第24回目は中島銀右衛門さんです。

 中之条の国道沿いに 「中島銀右衛門」 さんを讃えた筆塚があります。

 先日もご紹介しましたが、国道沿いにあるため筆塚の痛みが激しく。

 6月から約2か月かけた修復作業が漸く終了いたしました。

                       

左から修復作業にあたる、文化財センター青木所長、時信学芸員、宮下学芸員

                           

 江戸時代、中之条地区には多くの文人が出ていますが、中でも有名なのが中島銀右衛門です。

 (文化3年 1806年〜明治16年 1883年)

               

 銀右衛門は、中之条陣屋によって教学人(教師)に命じられ、代官以下の役人の子や村人の子に漢籍や詩歌を教えました。

 門人の中で著名な者は、明治維新後子爵となった陸軍軍医の石黒忠悳(ただのり)がいます。

 忠悳は当時、陣屋手代の秋山省三(母親の弟)の家に母と共に陣屋で暮らしていました。

 忠悳の長男が忠篤(ただあつ)で、戦前・戦後を通じてわが国の農業政策を展開し、農業の神様とよばれた人物です。

 銀右衛門は門弟から慕われ、心温まる人であるばかりでなく、孤高の人、毅然として生きた人であったといわれています。(坂城町「ふるさと探訪」より)

 また、仁厚の人で、世の中が軽薄になり師弟の関係もだんだんと薄くなりつつあった時代に、門弟から慈母のように慕われたといいます。 (「坂城のいしぶみ」より)

                       

 碑の最期に詩が書かれています。一部のみ訳をご紹介します。

 「孤高の人、毅然として生きた人、こういう人こそ世の中へ顕彰すべきである。今ここに其の恩に酬ゆるために、馬のたて髪のような形をした筆塚をたてそれがそばだっている。いつまでも崩れず立っていてほしい。今我は碑文を作った。そしてこの碑を讃えて高野山のようだといいたい。」 (「坂城のいしぶみ」より)

 「いつまでも崩れず立っていてほしい。」 とあるように今回、補修をいたしました。

                          

 坂城には大きな功績を残された方々がまだまだたくさんおられます。

 これからもご紹介を続けていきます。

                     

                         

 坂城町長 山村ひろし

カテゴリ[ 4.坂城の100人]   コメント[0 ]   トラックバック[0]