13/12/27 01:17

坂城の100人 第28回目は中島仲重校長先生

 坂城の100人、今までは歴史上の人物を中心に取り上げてきましたが、さる、12月22日の日本経済新聞全国版、「熱風の日本史」の中の「御真影 守護に重圧」というテーマで中島仲重校長が取り上げられたということもあり、今回は「坂城の100人」28人目として、南条小学校の校長で大正10年1月6日に同校の火災の際に天皇陛下の御真影を取り出そうとし殉死した中島仲重氏を取り上げます。

 

平成25年12月22日付日経の記事

中島仲重校長の顕彰碑は南条小学校にあります。

                 

 中島仲重校長は明治17年(1884年)中之条村に生まれました。

 明治39年に長野県師範学校を卒業、戸倉小学校に勤務、大正2年(1913年)、29歳で南条小学校の校長となりました。

 若くして校長になり、全身全霊で教育に打ち込み、大変人望のあった方だったそうです。

 今でも、南条小学校のホームページには中島校長が当時力をいれて行った教育活動を以下のように伝えています。

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 (南条小学校ホームページより。 中島校長の努力されたこと)

1.社会をよくし、本当に人生を切り開くことのできる実力ある人間をつくる

2.高等科の設置を復活させ、自ら生徒募集に村内を廻り、特に女子生徒の入学をすすめ、教育の実を挙げる。

3.研究の裏づけがあって教育は発展するとし、自身はもちろん職員の研究に大いに熱意を傾ける。

4.同僚職員に対する親身の指導信頼、そして全責任をもって守る。

5.自ら積極的に村民の中に入り込んで教育する。あるときは、婦人会長まで行う。

6.高い見識をもって努力する。

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 そんな中での火災。

 大正10年1月6日、午後6時半頃、南条尋常高等小学校で火災が発生。

 東校舎2階南側から発した火は、2時間にわたって燃え続け、東校舎、南北両袖校舎および小使室など校舎の大半を焼きつくし、教室1棟、雨天体操場1棟、便所1棟を残して、午後8時半ころようやく鎮火した。

                     

 火災の状況は以下の通りです。(「坂城町誌」より)

 「当日、中島校長が火災警報を聞いて山金井の居宅から学校に駆けつけた時、御真影奉安室にあてられていた東校舎2階の宿直室は、すでに猛煙に包まれていた。南条小学校へは大正4年に大正天皇、翌5年に皇后の御真影が下賜され、厳格な奉護既定のもとにおかれていたが、中島校長はその御真影を守ろうと、階段をのぼり奉安室に達したまま脱出できず焼死したのである。」(享年38歳)

 中島校長の焼死は殉職として全国的に社会的な大反響を呼び、全国から弔慰金が集められその金額は総額21,137円に達したという。(「岩本務『「御真影に」殉じた教師たち』)

岩本務『「御真影に」殉じた教師たち』

                               

 その当時の時代背景により、中島校長の殉死は「御真影」の扱いについて大きな影響を与えることになり、「御真影の安全管理は命を賭してでも守る絶対的な義務」となっていきます。

 ただし、中島校長の焼死が伝えられる中で、「人と物とは何時の場合も換(か)ゆ可きものではない。畏れ多いことではあるが御真影は物であって中島校長は人である」というような意見もあったそうです。(当時はまだ大正デモクラシーの時代でもあった)

                      

 来年度から南条小学校の改築工事が始まりますが、中島校長の顕彰碑のある箇所は「中島公園」として大切に保存されます。

                     

 中島校長の殉死の後、各学校には堅牢な奉安殿が作られるようになったのですが、中島校長が生前、村の委員会に切望していたものがまさにそれで、以下の提案文章が残されています。

               

 (中島校長の提言)           

 設備ヲ要スベキ建物及其内容

一、御真影奉安殿・・・・何モノヨリ先ニ完全の設備ヲ

(「南条小学校百年誌」より)

                  

                       

 坂城町長 山村ひろし

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13/12/17 23:30

「玄古たばこ」追加資料 その2

 「玄古たばこ」の続きです。

                    

(以前のブログ)

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=34549

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=34523

               

 「玄古たばこ」 について、その後、いろいろな方からご連絡をいただきましたが、最大のものは、坂城町宮下副町長の情報です。

 戸倉にある蕎麦料理の専門店で坂井銘醸が経営されている「萱」という店の展示室に 「玄古たばこ」 があったような気がするという話でした。

 早速、お邪魔すると酒に関する展示室の片隅に 「玄古たばこ」 の現物と説明資料が展示されていました。

展示ケースを指さす宮下副町長

            

「葉たばこ」についての説明(以下、全文を掲載します)

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 葉たばこ

 明治八年南条村横尾小滝邯磴茲

 買入れた 南条金井は有名な玄古

 煙草の名産地 この品は日本最古

 の葉たばこです

  タバコは明治三七年専売制となる

  明治八年(一八七五)戸倉村戸長 酒井賎雄

  また小滝邯磴眛郛鯊叱幼攻侈

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昭和57年のニュース

坂井銘醸さん(代表取締役専務:村尾ふみさん)が戸倉で酒造りを止めるため土蔵の整理をしていたところ、中から100年前の玄古たばこが出てきたとのことで、それを展示することになったというニュースです。

            

130年前の「玄古たばこ」  しっかりと原型をとどめています。

                       

 このように、「玄古たばこ」の現物が展示されているのは他にないのでは。

 坂城町のかつての特産品で南条では江戸期を通して主要産業であり、最近ではほとんど忘れ去られていた 「玄古たばこ」 の存在が急に身近なものになってきました。

 大いに、往海玄古の再評価をしたいと思います。

 今回、いろいろと情報を提供してくださった方に感謝いたします。

                      

 坂城町長 山村ひろし

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13/12/17 11:28

「玄古たばこ」の追加資料

 先日、往海玄古と「玄古たばこ」について書きました。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=34523

 その後、関連する貴重な資料が坂城町文化財センターに保存されていることがわかりました。

 昭和5年に編纂された「南條郷土研究」の61ページから74ページにわたり、詳細に「玄古たばこ」について記載されていました。

 概ね先日ご紹介した内容と違いはありませんが、以下のように図入りで説明しています。

 江戸末まで横尾村の村民の約半数が「玄古たばこ」の生産に関与していたそうです。

            

上図にもある、「玄古たばこ」 用の 「たばこ包丁」(約20cm)

最近まで南条小学校で保管されていました。

                      

 今後とも、坂城町内に残されている貴重な文化財の修復、保存、閲覧などできるよう整備をしてまいります。

                 

 坂城町長 山村ひろし

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13/12/14 22:22

坂城の100人 第27回目は「往海玄古」

 往海玄古は埴科郡横尾村に 「玄古たばこ」 の種を持ち込み、近在の村々の名産物にしたお坊さんです。

 ただし、この玄古和尚がなぜ横尾村に来たのかは諸説あって不明な面が多いようです。

 江戸期を通して(幕末まで)、坂城で特産の煙草を普及させた、玄古和尚の功績についてもっと評価すべきだと思っています。

                   

 先日、「たばこと塩の博物館」に問い合わせをしたところ、いくつかの資料をご紹介いただきました。

 まず、玄古和尚についてですが、明治30年ころの資料によると武蔵国児玉郡今井町(現埼玉県本庄市)の出身で、元和年間(1615年〜1624年)、諸国を遍歴した後に埴科郡に到来し、南条に庵をくみ薩摩から持ち寄った煙草の種を移植したとされています。

 以下、明治30年頃に集められた史料をもとに、全国で『煙草調査書』が作成された小出雲の『煙草調査書』の一部を掲載します。(「たばこと塩の博物館」 学芸員 湯浅淑子さんから提供いただきました。)

「沿革
日記ノ伝フル処ニヨルニ、元和年間秀忠公ノ将軍タルトキ、作洲津ノ山ノ城主森右近ノ所領タリシトキ、釈門玄古ナルモノ{武蔵国児玉郡今井町(方今共和村)高橋左京之助ノ男}幼少ノ頃ヨリ諸国ヲ遍歴シ、其帰路薩州国分ヨリ種子ヲ得、コレヲ埴科郡ニ携帯シ、南條村ニ庵ヲ立テ、コゝニ初メテ栽植セリ、{或説ニハ薩摩ノ僧ナリト云ヒ南條村ノ住職ナリトモ云フ}而シテ其当時ハ位置ハ今尚存スルカ、寺庵附近一町歩余ノ小丘ナリト{其一ニ設建セラレタル碑文アリ寛文三年四月二十八日遷化}之レ玄古煙草栽培ノ起原ニシテ、玄古葉ノ播種セラレテヨリ近郷漸次耕作スルニ至リ、七十四余年前頃迄ハ全盛ヲ極メケルモノノ如ニシテ、小県郡上田町ハコレカ集散ノ中心トナリ、其需用ノ区域ハ佐久平ヲ主トシ、関東諸国ニ至タリ」

 これによると、江戸の末期でも上田を集積所として佐久平、関東に広く盛んに出荷していたことが分かります。

 また、玄古については、「或説ニハ薩摩ノ僧ナリト云ヒ南條村ノ住職ナリトモ云フ」とあるように、薩摩の僧、あるいは南條村の住職であると言い、南條の寺庵近くの丘に1町歩ほど栽培をしていたとのことです。

                                                   

 また、これも湯浅さんからご紹介いただいたのですが、江戸のたばこ屋三河屋弥平次が文政頃(1818年〜1830年)に記した記録 「煙草諸国名産」 (『狂歌煙草百首』という本の一部)には、『玄古煙草は(玄固煙草と記されている)、埴科郡横尾村の庵室に玄古坊という僧がおり、諸国を遍歴するうち、丹波から煙草の種を持ち帰った』と記されています。

 西尾市岩瀬文庫ディジタル資料に 「煙草諸国名産」 が収録されていました。 (岩瀬文庫は愛知県西尾市の古書専門の博物館)

                    

「煙草諸国名産」 (西尾市岩瀬文庫ディジタル資料より)

                  

上段に玄古坊が横尾村に煙草を持ち込んだと書かれていますが、「丹波」から持ち帰ったと記されています。

             

 私は喫煙者ではありませんので煙草の味は分かりませんが、「ふるさと探訪」(坂城町教育委員会)によると、『「玄古たばこ」は、味は辛いが香気があり、坂木五千石の代官長谷川安左衛門から領主高田松平氏へ献納された記録が残されている』 そうです。

玄古碑 (往海玄古 主庵)(町横尾)

玄古碑(裏面)(町横尾)

「たばこ元祖、埴科郡横尾村」

          

往海玄古の墓(寛文3年―1663年)(町横尾)

                  

 中央の表記には 『右の自然石は他所にあったものを後に移したもので読み取ることは難しくなっているが、「この所に於いて往海玄古法師は玄古たばこ元祖者也」と思われる』 と記述されています。

              

 * かつての特産物 「玄古たばこ」 について、あるいは往海玄古について資料をお持ちの方がおられましたらご教授下さい。

                           

 坂城町長 山村ひろし

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