14/09/29 05:00

坂城の100人 第41回は小野沢時仲です

 先日、坂城の100人 第40回目として鎌倉期に活躍した小野沢氏の祖「小野沢仲実」をご紹介しましたが、今回はその息子、小野沢時仲です。

 村上氏というと村上義清を中心とした戦国期のみを考えがちですが、11世紀後半の源盛清以来、500年もの長きにわたって村上の地を統治した歴代の村上氏ならびに分派した村上氏ゆかりの人物にもっともっと焦点が当てられるべきだと思います。

               

 その意味で、今回は前回に続き、鎌倉期に大活躍をした小野沢氏についての物語続編です。

 地名に残る小野沢は坂城町びんぐしの里公園と自在山(三角山)の間で、村上氏発祥の地 「島」 地区の東側下流の場所です。

          

現在の小野沢地区

びんぐしの里公園と自在山(三角山)の間で島地区の東側

            

    

小野沢にある村上保育園での運動会

後方に見えるのは「びんぐしの里公園」

               

       

この地図の上方左側の出浦沢川の右側に「島」、そのやや右側に「小野沢」、さらにその下側びんぐし湯さん館の左側に「福沢」の地名が見えます。これを見ただけでも「村上氏」の他に「出浦氏」、「小野沢氏」、「福沢氏」の存在が分かりますね。

                

 今回も坂城町 「鉄の展示館」 学芸員、宮下修氏に記述していただきました。

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北条得宗家に仕えた小野沢氏 その(2)「小野沢時仲」

 

今回も村上氏の一族である小野沢氏を紹介します。

前回は小野沢氏の祖「仲実」でしたが、今回は仲実の子である小野沢時仲です。

仲実の時代に北条得宗家の被官となり、御家人としても主家村上氏から自立し、幕府の中枢で活動するようになりましたが、その立場は時仲の代でも変わらず、幕府の記録では様々な場面で登場しています。

嘉禎元年(1235)629日、時仲は将軍藤原頼経の五大明王院供養の参道に供奉したのをはじめ、頼経のあとを継いだ将軍藤原頼嗣やその後皇族将軍となる宗尊親王の近習として、数多くの出御の際に供奉しています。

 また、時仲は弓矢の名人でもあったため、宝治2(1248)115日には弓始の射手2番をつとめ、弘長元年(1261)425日には、極楽寺(北条重時)邸における笠懸の射手をつとめるなど、度々弓始の射手や笠懸の射手などの儀式に参加しています。

 建長4(1252)43日、頼嗣が将軍を解任され京都へ送還される際、時仲はその路次奉行をつとめました。

弘長元年(1261)919日、時仲は、将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理し、将軍及びその御所の警備を統括した「小侍所」の所司を一時的につとめています。この職は代々幕府に仕えていた東国御家人の一族であるという家柄が重視された他、弓馬などの諸芸に通じている事も考慮されたため、これに選ばれることは名誉とされており、一時的にしろ、この職の任に就いたことは、小野沢氏のこの時期の立場を示しているといえます。

一方、得宗被官として時仲は、寛元3(1245)7月、将軍頼嗣のもとへ得宗北条時頼の妹である檜皮姫が嫁いだ際、同じ得宗被官の尾藤景氏と共に随行員として供奉し、2年後に檜皮姫が亡くなるとその葬送に参列しています。また、建長2(1250)527日には、北条時頼の使者として『貞観政要』の一部を将軍頼嗣に進上しています。

このように時仲は、父仲実と同様、将軍に近侍する御家人として、将軍3代(藤原頼経、頼嗣、宗尊親王)に仕え、路次奉行や小侍所の所司を一時的につとめるなど、かなり重要なポストに就任していきますが、こうした地位向上の背景には、小野沢氏が幕府のトップである得宗北条氏の被官であったことが大きな要因にありました。

建治元年(1275)の六条八幡宮造営記録には、鎌倉在勤の御家人として「小野沢左近大夫入道跡」が記されており、鎌倉後期以降も小野沢氏の健在が予想できますが、鎌倉幕府崩壊後、その動向は確認できなくなります。他の多くの得宗被官の家々が北条氏とともに滅亡するか没落していきましたが、小野沢氏もその一つであった可能性が高いといえます。

しかし、村上氏以外の坂城町の地名を冠する武士が、鎌倉時代、歴史の大きな中心で活躍していた事実は、坂城の歴史にとって大きな出来事であったことは間違いありません。

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坂城町長 山村ひろし

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14/09/21 04:40

坂城の100人 第40回目は小野沢仲実です

 村上氏というと村上義清を中心とした戦国期のみを考えがちですが、11世紀後半の源盛清以来、500年もの長きにわたって村上の地を統治した歴代の村上氏ならびに分派した村上氏ゆかりの人物にもっともっと焦点が当てられるべきだと思います。

               

 その意味で、今回は鎌倉期に大活躍をした小野沢氏についての物語です。

 地名に残る小野沢は坂城町びんぐしの里公園と自在山(三角山)の間で、村上氏発祥の地 「島」 地区の東側下流の場所です。

          

現在の小野沢地区

びんぐし公園と自在山(三角山)の間で島地区の東側

            

             

この地図の上方左側の出浦沢川の右側に「島」、そのやや右側に「小野沢」、さらにその下側びんぐし湯さん館の左側に「福沢」の地名が見えます。これを見ただけでも「村上氏」の他に「出浦氏」、「小野沢氏」、「福沢氏」の存在が分かりますね。

                

 今回は坂城町 「鉄の展示館」 学芸員、宮下修氏に記述していただきました。

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北条得宗家に仕えた小野沢氏 

  その(1)「小野沢仲実」

 

今回と次回、村上氏の一族として鎌倉時代にその活躍が知られている「小野沢氏」について紹介します。

小野沢氏は頼朝・頼家・実朝の源氏将軍三代後、鎌倉幕府で絶大な権力を握った北条氏の研究で数多く取り上げられ、その姿は主家の村上氏より詳しく伝えられています。

小野沢氏の祖である小野沢仲実は、『尊卑分脈』によると村上為国の孫(父は「出浦氏」の祖:成国)で、村上氏が発祥した村上地区上平の「島」に隣接する「小野沢」の地名を名字として誕生しました。

           

仲実が歴史上に登場するのは、嘉禎元年(1235)711日、将軍藤原頼経の小御所出御に伺候した記録からです。その3年後にも頼経の上洛に供奉しており、仲実は将軍に近侍する御家人であったことがわかります。

一方、暦仁元年(1238107日、仲実は執権北条泰時が派遣した弔問の使者として上洛しており、泰時の被官であった様子も窺えます。

このように、仲実は将軍に仕える御家人であるとともに、北条氏の惣領=「得宗」の被官の立場でもあったのでした。

その後、いったん仲実の動きは見えなくなりますが、建長3年(12518月になると、再びその姿が明らかになってきます。

この年から文永2年(1265)まで、仲実は鎌倉の一般行政を担当する地奉行人であったことが確認できるのです。地奉行人は2名いて、1名は得宗の被官から任命されたことから、仲実は得宗北条時頼の被官として任命されたと考えられています。

このように、小野沢氏の初代仲実は、御家人であると同時に、幕府最大の権力者北条氏の惣領である得宗の被官となり、さらに鎌倉の地を支える奉行人になるなど、小野沢氏は本国信濃から離れて幕府の所在する鎌倉を地盤に、幕府の中枢で活動していたことがわかります。

主家であった村上氏は、承久の乱前後以降、幕府中枢から外されることになりましたが、小野沢氏はそれと入れ替わるような形で北条泰時の被官となり、以後、得宗家の被官としてその基盤を築き、村上氏から自立していったものと思われます。

        

次回は小野沢仲実の息子の小野沢時仲を取り上げます。

              

                   

坂城町長 山村ひろし

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