14/12/25 05:28

坂城の100人 第45回目は池田知硯(ちせき)

 坂城の百人、第45回目は前回に続き、坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、池田知硯(ちせき)(生年、没年は不明。江戸末期から明治初頭の人物。)について記述します。    

 内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載しています。(今回で4人目です。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

坂城町の寺子屋師匠(4)池田知碩(いけだちせき)(中之条村)

 

明治四十二年に刊行された『埴科郡誌全』の人物編に寺子屋師匠であった池田知碩が載せられている。

              

「池田知碩は通称彦三郎三省堂と號す。埴科郡中之條村の人、家世々農を業とす。知碩幼より好みて書を読み、古今百家の書に通ず。性恬淡・寡言にして、能く人を愛し、栄利を求めず、仁慈にして施を好む。郷党学を好む者就て、書を借らんとすれば、欣然として之に応じ復其返納を責めず、若し所蔵なき時は購求して、之を貸與す。 (中略) 明治九年悉く其所蔵の書籍を出して、隣里郷党に頒つ。北は長野・松代より南上田に至る読書を好む者多く、其恵に浴す。親疎に論なく、毎人壱部合四百十六部二千九百九十四冊なり。十年五月飄然として家を出で、終に其所在を失ふ。譽世之を奇なりとす。知碩嘗て俳句を詠じて曰く、

                

六月の隙貝付たり野の木影(蔭)

               

遠近贈与を受けし者思慕して止まず。然れども、今に至るまで其終る所を知らずと言ふ。」

              

 平成二十四年十月、格致学校で行った寺子屋展において、知碩から譲り受け、「知碩」の印を押した地図と刊本を展示した。今年になって知碩の弟子になる堀内周蓮覆靴紊Δ討ぁ砲明治五年(一八七二)五月に知碩が弟子たちに蔵書を配る前の蔵書目録「池田氏蔵書録」をまとめていたことがわかった。蔵書録によると六〇三部、一九八一冊となっている。

 知碩の句碑が村入口に建っているとなっているが、所在がわからない。

                       

 以下の写真は池田知硯が寄贈した本の一部で、「鳩翁道話」と「靖献遺言」               

池田知硯蔵書「鳩翁道話」

「鳩翁道話」:江戸時代後期の石門心学者柴田鳩翁の心学道話          

          

池田知硯蔵書「靖献遺言」

「靖献遺言」:浅見絅斎が1680年代に書いた尊王思想の書

          

・・・・・・・・・・・・

        

 坂城町長 山村ひろし 

カテゴリ[ 4.坂城の100人]   コメント[0 ]   トラックバック[0] 

14/12/19 05:00

坂城の100人 第44回目は山極茂吉

 坂城の百人、第44回目は前回に続き、坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、山極茂吉(もきち)(1761年−1834年)について記述します。  

 内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載しています。(今回で3人目です。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

坂城町の寺子屋師匠(3)山極茂吉(もきち)(金井村)

 

 南条小学校の西、旧道沿いに大きな石碑がある。江戸時代の寺子屋師匠、山城茂吉の筆塚・頌徳碑である。山極茂吉は字を高明、号を鷙盧慄碧山という。宝暦十一年(一七六一)に金井村の山金井に生まれる。

            

                   

 山極茂吉の筆塚の撰文は、佐久間象山によるもので、『象山全集』にも掲載されている。漢文で書かれているが、前の部分を読み下しにすると次のようになっている。

 「山極高明茂吉と称す。世これを金井に居信す。人と為り寛蕑慈祥、人争訟有るを聞けば輒を循々これを解く。人亦往々これが為に渙然たり。故に茂吉の世を終る、里大訟無し。書札を善くし、其の筆蹟を学び、弟子の礼を執る者六百人、信上越の間に散居す。年七十三病家に散る。弟子追慕して已ます。乃ち其の退筆を其の家に需めて、瘞めて一塚と為す。」

 茂吉は、非常に寛容の人で、争い事があると聞けば、よく言い聞かせ、そのため近郷には争い事は無かった。和漢の学や書に優れ、弟子の礼をとる者が六百人余もあり、なかには上州や越後から来る者もいた。七十三才で没し、弟子たちが師匠を悼んで遺品を納めて筆塚を築いた。

 山極家文書は、上田市立博物館にわずかではあるが入っている。その中には、お手本の『千字文』などがあり、幕府領の取締役を勤めたことがわかる古文書も残されている。

・・・・・・・・・・・・・

           

 坂城町長 山村ひろし

カテゴリ[ 4.坂城の100人]   コメント[0 ]   トラックバック[0] 

14/12/05 06:58

坂城の100人 第43回目は西澤仁兵衛

 坂城の百人、第43回目は前回に続き、坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、西澤仁兵衛(にへい)(1808−1882)について記述します。

 内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載しています。

 

坂城町の寺子屋師匠(2)  西澤(にしざわ)()兵衛(へえ)鼠宿村)

 

 西澤仁兵衛の筆塚は、鼠宿の最南端、上田から来ると国道一八号線右側に整備された旧道の中程近くに建つ。中之条石で造られているためか、一部が剥落している。

         

               

 寺子屋師匠の西澤仁兵衛と筆塚については、西澤卓郎氏が『さかき』創刊号(さかき歴史同好会刊)に「筆塚考」を書いているので、それらを参考にする。

 西澤家は仁兵衛を称する者が多く、幕末には三代続き、寺子屋師匠をしたのは二代目仁兵衛昭敬である。仁兵衛昭敬は、文化五年(一八〇八)に仁兵衛昭方の嫡子に生まれる。幼名は圭蔵、成人して牧太、嘉永元年(一八四八)九月、家督を相続して仁兵衛昭敬と改名する。

 仁兵衛は、幼少の頃より学問を好み、和漢の学に深く、書にも優れ、多くの門弟に読み書きを教えた。また、学問を通じて佐久間象山とも交遊があり、象山もよく仁兵衛宅を訪れたと伝える。

弘化四年(一八四七)十月、上五明村の者たちが収穫した薩摩芋を上田へ持っていこうとしたところ、下塩尻村中島の者たちに差し留められ、更に用水揚口を切り落とされる事件へと発展してしまった。この時、仁兵衛昭敬は、父の仁兵衛昭方に代わり江戸へ出府したり、松代藩役所へ出向いたりして解決に尽力している。文久三年(一八六三)十二月、松代藩から「奇特之体これ有に付」として籾一五俵が下賜されている。

 仁兵衛昭敬は、明治十五年(一八八二)七月十八日に亡くなる。筆塚は明治二十年十一月、幕末・明治に活躍した山岡鉄太郎(鉄舟)の書による。

              

坂城町長 山村ひろし

カテゴリ[ 4.坂城の100人]   コメント[0 ]   トラックバック[0]