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「坂城の100人」第49回目は雷電為右衛門

 「坂城の100人」第49回目は雷電為右衛門としました。

 今年、生誕250年を迎えた雷電為右衛門は近郊の小県郡大石村(現東御市滋野乙)出身の大変有名な、無双力士といわれた相撲取りですが、巡業のため頻繁に北国街道を通り、坂木宿など訪れていました。

 また、雷電日記によると、少なくとも2回、坂木宿と中之条で相撲興行をおこなっています。

 十分、坂城ゆかりの人物ということが出来ます。

 相撲巡業についての記述は「雷電日記」(渡邊一朗監修、小島貞二編、ベースボール・マガジン社)によれば以下の通りです。

  

1.坂木宿での巡業 寛政12年(1800年) 

 「信州坂木の宿で二日間の興行を勤めた。ここでも天気に恵まれ、大入りであった。福蔵という人物が勧進元だったが、儲けは五分五分の取り決めで、木戸銭から十五両が手元に入った。 この興行が終わって在所に立ち寄り四日ほど逗留したが、その際、以前新築した家の建築費の未払い分五十両、また新築祝いの酒屋への支払い分二十八両を一括して支払った。」

 以上のように、坂木宿での興行の後、その儲けで故郷の大石村に帰り新築した家の支払いなどにあてたそうです。

 

2.中之条での興行 文化2年(1805年)

 「信州中野城(中之条)というところで三日間の興行を勤めた。ここでは百貫ほど(25両程度)の利益が上がった。」

 このあと、上田城下で一日逗留し、田沢温泉へ行き三日間逗留したなどと記述があります。

  

 「雷電日記」によると、とにかく、現在の北海道、沖縄を除く全国をくまなく巡業しています。 まるで芸能人の全国ツアーのようです。

 江戸期に相撲取りのことを 「十日で暮らすよい男」 などのような暇はまったくないことがわかりました。

             

 さて、坂城町「鉄の展示館」では、きたる、9月7日(土)より11月5日(日)まで、「大相撲と日本刀展」 を開催します。

 江戸期から現代までの名力士の所有する太刀や脇差などが展示されます。 もちろん雷電の所有していた道中差なども展示されます。 ぜひお出でください。

 

「鉄の展示館」サイト

http://www.tetsu-museum.info/

            

 以下、雷電為右衛門についての紹介をご覧ください。(東御市観光パンフレットより)

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無双力士 雷電為右衛門パンフレットより

道の駅雷電くるみの里 雷電資料館パンフレットより

 

1、生い立ち
 
 天下無双の大力士雷電為右衛門は、明和四年(1767)信濃国小県郡大石村(現東御市滋野乙)に生まれた。父は 半右衛門、母を けん といった。幼名を太郎吉と称した。太郎吉が少年だったある夏の午後、母のけんが庭で据風呂に入っていた。ところが急に雷鳴とともに激しい夕立がしてきた。太郎吉は、母を風呂桶ごとかかえて、家の土間に運び込んだという親孝行な逸話が伝えられている。
 また、細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に出会ってしまった。せまい道、よけることもできず困った太郎吉は、荷をつんだ馬の足を持って目よりも高くさしあげ、無事行列をお通しし、「あっぱれじゃ。」と殿様からお褒めにあずかった。
 
 2、江戸相撲に入門
 
 千曲川の対岸の長瀬村に上原源五右衛門という庄屋がいた。その庄屋は、学問好きで寺子屋師匠をする傍ら、石尊の辻をつくって相撲好きな若者の世話にも余念がなかった。このことを知った太郎吉は、上原源五右衛門方に寄食して学と技を磨いた。折しも、江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れた。その時、太郎吉は、浦風に相撲とりとしての才幹を見込まれ、天明四年(1784)十七才で出府、江戸相撲に入ることとなった。恵まれた天与の素質に加えて、熱心に稽古にはげんだ甲斐あって、寛政二年(1790)には関脇に付出され優勝した。完成七年には大関に昇進し、実に十六年二十七場所の長きにわたり大関の栄位を保持し、九割六分二厘という古今最高の勝率をあげた。
 雷電には禁じられた手が三つあった。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」である。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。なお、雷電は文化八年(1811)惜しまれつつ引退した。
 
 
 
3、お抱え力士
 
 山陰地方の親藩松江藩の殿様松平治郷(不昧公)は、雷電の力と技と学徳の傑出していることを見てとり天明八年(1788)松江藩に召し抱えた。雷電は、八石に三人扶持を与えられ、お抱え力士として活躍したのであった。彼は生涯雲州関為右衛門と自らも称し、藩務にも精を惜しまず、引退後は松江藩相撲頭取を任ぜられた。松江市にある松平家の累代の霊廟の一隅には雷電の墓が今も残っているが、彼がいかに厚偶されたかを知るに十分である。雷電は、文政八年(1825)妻にみとられながら五十九才で没した。死後その遺骨は分骨され故郷大石村(現東御市滋野乙)の関家墓地に葬られているが、雷電の力にあやかろうという参詣者が絶えない。 
 
 
4、生家とその復原
 
 三十三才の時、故郷大石村に帰った雷電は五十両で自分の生家を建てなおした。もっとも、その家は、自分が少年時代世話になった長瀬村の庄屋上原家より小さく建てた。ここに義理堅い雷電の一面がうかがえる。もっとも、家の竣工祝に、建築費と同額の五十両を投じ大盤振舞をしたという。
 昭和五十九年、雷電が建てたというその家も老朽化したので、関係者の協力で生家の復原ができた。この家は、土間に土俵が作られていることと、二階が桟敷席になっており、相撲ぶりが観覧できるのが特徴である。
 
 
 
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 坂城町長 山村ひろし

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