17/04/11 04:06

「坂城の100人」第49回目は雷電為右衛門

 「坂城の100人」第49回目は雷電為右衛門としました。

 今年、生誕250年を迎えた雷電為右衛門は近郊の小県郡大石村(現東御市滋野乙)出身の大変有名な、無双力士といわれた相撲取りですが、巡業のため頻繁に北国街道を通り、坂木宿など訪れていました。

 また、雷電日記によると、少なくとも2回、坂木宿と中之条で相撲興行をおこなっています。

 十分、坂城ゆかりの人物ということが出来ます。

 相撲巡業についての記述は「雷電日記」(渡邊一朗監修、小島貞二編、ベースボール・マガジン社)によれば以下の通りです。

  

1.坂木宿での巡業 寛政12年(1800年) 

 「信州坂木の宿で二日間の興行を勤めた。ここでも天気に恵まれ、大入りであった。福蔵という人物が勧進元だったが、儲けは五分五分の取り決めで、木戸銭から十五両が手元に入った。 この興行が終わって在所に立ち寄り四日ほど逗留したが、その際、以前新築した家の建築費の未払い分五十両、また新築祝いの酒屋への支払い分二十八両を一括して支払った。」

 以上のように、坂木宿での興行の後、その儲けで故郷の大石村に帰り新築した家の支払いなどにあてたそうです。

 

2.中之条での興行 文化2年(1805年)

 「信州中野城(中之条)というところで三日間の興行を勤めた。ここでは百貫ほど(25両程度)の利益が上がった。」

 このあと、上田城下で一日逗留し、田沢温泉へ行き三日間逗留したなどと記述があります。

  

 「雷電日記」によると、とにかく、現在の北海道、沖縄を除く全国をくまなく巡業しています。 まるで芸能人の全国ツアーのようです。

 江戸期に相撲取りのことを 「十日で暮らすよい男」 などのような暇はまったくないことがわかりました。

             

 さて、坂城町「鉄の展示館」では、きたる、9月7日(土)より11月5日(日)まで、「大相撲と日本刀展」 を開催します。

 江戸期から現代までの名力士の所有する太刀や脇差などが展示されます。 もちろん雷電の所有していた道中差なども展示されます。 ぜひお出でください。

 

「鉄の展示館」サイト

http://www.tetsu-museum.info/

            

 以下、雷電為右衛門についての紹介をご覧ください。(東御市観光パンフレットより)

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無双力士 雷電為右衛門パンフレットより

道の駅雷電くるみの里 雷電資料館パンフレットより

 

1、生い立ち
 
 天下無双の大力士雷電為右衛門は、明和四年(1767)信濃国小県郡大石村(現東御市滋野乙)に生まれた。父は 半右衛門、母を けん といった。幼名を太郎吉と称した。太郎吉が少年だったある夏の午後、母のけんが庭で据風呂に入っていた。ところが急に雷鳴とともに激しい夕立がしてきた。太郎吉は、母を風呂桶ごとかかえて、家の土間に運び込んだという親孝行な逸話が伝えられている。
 また、細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に出会ってしまった。せまい道、よけることもできず困った太郎吉は、荷をつんだ馬の足を持って目よりも高くさしあげ、無事行列をお通しし、「あっぱれじゃ。」と殿様からお褒めにあずかった。
 
 2、江戸相撲に入門
 
 千曲川の対岸の長瀬村に上原源五右衛門という庄屋がいた。その庄屋は、学問好きで寺子屋師匠をする傍ら、石尊の辻をつくって相撲好きな若者の世話にも余念がなかった。このことを知った太郎吉は、上原源五右衛門方に寄食して学と技を磨いた。折しも、江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れた。その時、太郎吉は、浦風に相撲とりとしての才幹を見込まれ、天明四年(1784)十七才で出府、江戸相撲に入ることとなった。恵まれた天与の素質に加えて、熱心に稽古にはげんだ甲斐あって、寛政二年(1790)には関脇に付出され優勝した。完成七年には大関に昇進し、実に十六年二十七場所の長きにわたり大関の栄位を保持し、九割六分二厘という古今最高の勝率をあげた。
 雷電には禁じられた手が三つあった。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」である。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。なお、雷電は文化八年(1811)惜しまれつつ引退した。
 
 
 
3、お抱え力士
 
 山陰地方の親藩松江藩の殿様松平治郷(不昧公)は、雷電の力と技と学徳の傑出していることを見てとり天明八年(1788)松江藩に召し抱えた。雷電は、八石に三人扶持を与えられ、お抱え力士として活躍したのであった。彼は生涯雲州関為右衛門と自らも称し、藩務にも精を惜しまず、引退後は松江藩相撲頭取を任ぜられた。松江市にある松平家の累代の霊廟の一隅には雷電の墓が今も残っているが、彼がいかに厚偶されたかを知るに十分である。雷電は、文政八年(1825)妻にみとられながら五十九才で没した。死後その遺骨は分骨され故郷大石村(現東御市滋野乙)の関家墓地に葬られているが、雷電の力にあやかろうという参詣者が絶えない。 
 
 
4、生家とその復原
 
 三十三才の時、故郷大石村に帰った雷電は五十両で自分の生家を建てなおした。もっとも、その家は、自分が少年時代世話になった長瀬村の庄屋上原家より小さく建てた。ここに義理堅い雷電の一面がうかがえる。もっとも、家の竣工祝に、建築費と同額の五十両を投じ大盤振舞をしたという。
 昭和五十九年、雷電が建てたというその家も老朽化したので、関係者の協力で生家の復原ができた。この家は、土間に土俵が作られていることと、二階が桟敷席になっており、相撲ぶりが観覧できるのが特徴である。
 
 
 
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 坂城町長 山村ひろし

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17/03/01 11:13

「たばこ史研究」

 (公益)たばこ総合研究センターから、「たばこ史研究」No.139が発行されました。

 今回の研究論文の中に、昨年、坂城町の「玄古たばこ」の調査をされた、山本拓哉さんの論文が掲載されています。

                  

(昨年坂城町に調査に来られた様子は以下のブログをご覧ください。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=43522

 

 山本さんは、坂城町の調査の後に、生坂村を訪れ、「生坂たばこ」についても調査されたそうです。

 表紙には、千曲市戸倉の「坂井銘醸」さんで保管されている、「玄古たばこ」の写真と

 目次として、

 ・阿部徳吉郎110回忌にあたって

 ・長野特集(1) 「生坂たばこ」と中央大学初代総長「加藤正治(犀水)」を生んだ在方荷主に関する考察

 ・長野特集(2) 坂城町に残る玄古和尚の墓と碑

などが特集されています。

   

              

      

 本ブログで詳細を記述することはできませんが、ご興味のある方は、(公益)たばこ総合研究センター(〒105−0001 港区虎ノ門3-2-2 虎ノ門30森ビル Tel:03-3436-3771)へお問い合わせください。

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 坂城町長 山村ひろし

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16/11/04 04:04

男谷燕斎の書 続き(西念寺 般若心経)

 昨日(11月3日)、坂城町中之条の浄土宗 西念寺(若麻績実豊ご住職)で10回目となる「中之条だいこん祭り」が開催されました。

 恒例のお茶、おしぼりだいこんのお振る舞いのほか、今回は、神田陽子、神田桜子さんによる講談を聞かせていただきました。

 神田桜子さんは今年4月に陽子さんに弟子入りしたばかりの新人ですが、なかなかの才能をうかがわせるお話を聞かせていただきました。

 神田陽子さんからは、「真田幸村 大坂出陣の巻」など大変迫力のある素晴らしい講談を演じていただきました。

 そんな折に、若麻績住職にお願いし、かねてより拝見したかった、男谷燕斎の貴重な書を拝見させていただきました。

 これは、文化11年 甲戌(1814年)に書かれたもので、男谷燕斎が中之条の陣屋に代官として赴任した年で、燕斎が西念寺さんに般若心経を奉納したものです。

 男谷燕斎の書は今までにもいくつかご紹介してきましたが、このようにしっかりとした楷書で書かれているものも珍しく思います。 さすが、江戸幕府の正祐筆だなと感じました。

 また、この書は、絹布に書かれており素晴らしい色彩でもあります。 

 西念寺さんと男谷燕斎代官との関係の深さも感じられました。           

 

 

ご住職の若麻績実豊さん

                

 坂城町長 山村ひろし

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16/11/02 04:04

男谷燕斎の書

 先日、私の友人から男谷燕斎の新たな書を二つ紹介されましたが、そのうちの一つに大変、趣のある書がありましたので以下、ご紹介します。

 男谷思孝(燕斎)1777(安政6)年〜1840(天保11)年、江戸後期、中之条代官をつとめた幕臣で能書家であり、名奉行といわれた人物です。(中之条代官の期間は1813年から1820年)

 今までにも何回かご紹介しましたので、ご興味があれば以下のサイトをご覧ください。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30345
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40528
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40433
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40721

            

 さて、今回ご紹介するのは、男谷燕斎が中之条の代官を勤めた後に越後国水原の代官を務め、江戸に戻り、丸御留守居役に就任した1823年以降に書かれたものと推定されるものです。

 

 

「人情大密反成疎」

人情は本来、大変こまやかなものであるが、気をつけねば疎(あらい)ものになってしまう。

 

箱書きに「鍋島閑叟公御師範 男谷燕斎孝筆行書」とあり、軸の上部裏面には「貞丸殿御師範 男谷氏筆」とあります。

  

 貞丸は鍋島直正(閑叟)の幼名で、男谷燕斎が江戸に戻った1823年は8歳です。(直正はその後17歳で藩主となります。)

 

http://www.nabeshima.or.jp/main/40.html

        

 従って、この書は男谷燕斎が1823年以降、貞丸(鍋島直正)に書の指導をした時期に書かれたものと思われます。

 久米邦武著『鍋島直正公伝』によれば、『直正は書を幕府右筆の男谷燕斎(おだにえんさい/1777〜1840)に学び、「九歳の時の揮毫を見るに、殆ど成人の筆の如く」であった。』そうです。

  

http://saga-museum.jp/museum/exhibition/limited/2010/12/000503.html

          

 従って、この書は男谷燕斎による書のなかで、年代が概ね想定できる貴重なものだと思います。

 如何でしょうか。

                

 ちなみに、1823年は男谷燕斎が46歳、婿養子で幕末の剣聖といわれた男谷信友(精一郎)が34歳、燕斎の弟の勝小吉が21歳、その息子の勝海舟が生まれた年です。

            

           

 坂城町長 山村ひろし

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16/10/24 04:58

薄雲太夫新資料

 先日、上田市の藤本化工(株)佐藤修一社長が江戸中期の坂城町鼠宿出身で高名を馳せた薄雲太夫についての新資料をお持ちになられました。

(薄雲太夫については、以前、私のブログにも紹介しました。)

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30564

             

 今回、お持ちいただいた資料は、佐藤さんの先祖で、天明7年(1787年)に亡くなられた、佐藤嘉平次珍英(たかふさ)さんがお書きになったものです。

 いろいろと書かれていますが、薄雲に関しては、

 (1)元禄年間に、仙台藩士2名が 「お館」(第3代伊達綱宗と推測されます。)が亡くなった旨(おそらく薄雲も亡くなったこと)を玉の井清右衛門に連絡に来たこと。

 (2)その確認のため、赤池忠左衛門ほか2名のものが見届けに行き、薄雲の遺品(鏡台、玉手箱、硯箱、文箱、緋綸子内掛、掛け物など)をいただいてきたと書かれています。

 (3)本来ならば、この遺品は、薄雲の出である、玉の井家に収められるものでしょうが、赤池中左衛門が玉の井清右衛門にお金を貸していたということもあり、赤池家におさめられることになった。

 (4)後日、この内掛けに「いろは」の紋をつけたこと。

 (5)赤池忠左衛門の孫まつ(佐藤珍英さんの妻になる人)にこの遺品を渡したが、佐藤嘉平次珍英が、これは遊女の手にしたものなのでこれを所持するのはいかがなものかということで、耕雲寺に寄付をした。

 

 と以上のことが書かれています。

 残念なことに、かなりの部分が虫食い状態になっていますが、ほぼ内容はわかります。

 

「遊女うすくも」 右側には赤池氏のいわれが書かれています。

               

 

左:清右衛門の娘「てる」器量に優れていた。山谷の三浦屋に売られ、江戸桜として全盛となる。

右:東国の大鎮(伊達綱宗)が高尾太夫を「さけ切り」に殺した後、薄雲に心を寄せる。これを薄雲が受け入れるが、乱行が公儀に知れるところとなり、品川へ閑居させられる。その後、お館も逝去し、元禄のころ、仙台藩士2名が鼠宿に知らせに来る。見届として中左衛門他2名が行き、遺物を受け取る。孫娘に渡すが、佐藤嘉平次珍英に嫁ぐ際にその品々を持参したが、珍英が「遊女の手に触れたものなのでそれをたしなみ、耕雲寺に収めることに。

           

 

左:「は」、屏風、鏡台、玉手箱、硯箱、文箱、緋綸子内掛、掛けもの

右:「さ」、「右 佐藤嘉左司珍英 耕雲寺へ、寄付打居緋綸子切

  寛文、延宝のころ、東国大守愛妾用候品  珍英妻・・・

        

(耕雲寺にある「いろは」の文字のつけられた打掛)

          耕雲寺 寶物 高尾圓盡卓袱           

             

 さらに、薄雲の墓を確認すると、墓石には「正徳元年 8月2日」と書かれています。

 伊達綱宗の没年も同年の正徳元年(1711年 旧暦6月4日没)です。

 没後に坂城町鼠宿に仙台藩士2名が連絡に来たということが書かれている今回の資料は大変価値があると思われます。

 いままで、薄雲の墓についてもこれが鼠宿出身の薄雲の墓かどうか確信がありませんでしたが、墓石の年号、仙台藩士がわざわざ連絡に来たことなどから新たな事実が登場したように思えます。

 なお、品川の妙蓮寺さんにお聞きするとこのお墓は間違いなく坂城の薄雲であると言っておられました。また、、伊達綱宗との間に一子をもうけたそうです。(残念ながら夭折したそうですが。)           

                   

 

薄雲の墓 東京品川、妙蓮寺(山村撮影)

 

 今回の新資料については坂城町学芸員にお願いし解読しました。

           

 坂城町長 山村ひろし

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