17/12/14 04:32

「坂城の100人」 50人目は宮本虎杖

 先日、江戸後期の坂木宿の旅籠「大藤屋」の女将で当時高名な俳人、藤沢雨紅の俳句集「松蔭集」の再刊をしたことを掲載しました。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=46185

 今回は藤沢雨紅の師匠で大変影響力のあった宮本虎杖を掲載します。

 坂城町学芸員の本間美麻さんに寄稿をしていただきました。 以下、ご覧ください。

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宮本虎杖(みやもと・こじょう)

  寛保元年(1741)〜文政6年(1823             

 

 宮本虎杖は、「坂城の100人」で12番目に紹介された女流俳人「藤沢雨紅」の師です。

江戸時代中ごろ、坂木宿より1里半ほどの下戸倉(現在の千曲市戸倉)に豪農の子として生まれました。

ちょうどその頃、信州にも江戸の俳諧文化が入り始め、特に松尾芭蕉を正統とする「蕉風俳諧」の復古運動が起きていました。

 虎杖は、この蕉風俳諧の俳人である加舎白雄(かや・しらお)に明和5年(1768)ごろに入門したといわれています。28歳ごろのことです。最初の俳号は古慊(こけん)といいました。

 加舎白雄は上田藩士の子として江戸で生まれ育ち、蕉風俳諧を学んだ人物です。

信州北部・東部に多くの弟子がいました。虎杖より3つほど年上です。

 

3132歳で白雄と共に北陸・関西方面へ行脚し、3335歳ごろには江戸の松露庵烏明(しょうろあん・うめい)のもとで俳諧の修業をしました。44歳となった天明4年(1784)、白雄から判者の資格を与えられ、虎杖庵を名乗ります。

 天明8年(1788)、白雄は江戸の海晏寺で芭蕉百回忌法要を執行し、虎杖も宗匠として参加しています。この法要は俳句大会も兼ねており、白雄が芭蕉の俳諧を正統に継いでいることを知らしめるものでもありました。

 白雄と共に中央での知名度が高くなった虎杖は、人気俳人番付でも上位に名を見せます。

芭蕉が『更科紀行』に記した名月の里・姨捨を訪れる俳人たちの間でも、案内人として有名でした。

 

 藤沢雨紅の句が虎杖の刊行物に確認できるのは、享和元年(1801)の『つきよほとけ』からです。

虎杖の師・白雄は寛政3年(1792)に没し、寛政12年(1800)、姨捨長楽寺に句碑が建立されます。発起人は虎杖でした。この建碑を記念した句集が、翌年刊行の『つきよほとけ』です。(ちなみに、この白雄句碑の用材は、坂城町中之条地区産出の中之条石とのことです)

この句集には雨紅と、虎杖の後妻・鳳秋との歌仙(2人で交互に詠む連句の形式のひとつ)が収録されました。このことから、雨紅は虎杖夫妻と親しく、俳人としての評価も高かったことが想像できます。

 

 雨紅をはじめ、坂城の俳人はほぼ虎杖の門人であり、中之条陣屋(代官所)に詰めていた武士の中にも、虎杖庵を訪ねる俳人がいました。

苅屋原の泉徳寺、南条の酒玉神社、村上の自在神社には虎杖が関係した奉納俳額があり、坂城の俳人と交流が深かったことがわかります。坂城の俳諧文化をより豊かにしたのが、この虎杖だと言えるでしょう。

虎杖は温厚な人柄で、寺子屋を開くなどして人望もありました。他流派の小林一茶も、北国街道を通る折に虎杖庵へ立ち寄りました。こうした縁からか、泉徳寺の俳額には一茶も奉句しています。

 

文政6年(1823)、虎杖は83歳で没します。翌年に息子で虎杖庵三世の八朗が追善の句集を刊行しました。その中に、「はるの野に 急ぐ景色ハ なかりけり」という虎杖の句があります。

30歳前後から俳句に打ち込み、50歳を過ぎてから初めての子に恵まれ、老いてからも多くの門人たちと句集を編み、人生をゆっくりと楽しんだ虎杖の姿が見えるような気がします。

         

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坂城町泉徳寺にある宮本虎杖碑

正面に「乕杖翁」、裏面に「夜桜や 世に阿類ものの迎馬」

           

 

坂城町長 山村ひろし

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17/11/23 11:43

藤沢雨紅 「松蔭集」 の再刊

 先月、坂城町教育委員会から、江戸後期に女流俳人として有名をはせた、藤沢雨紅の句集 「松蔭集」 を再刊発行いたしました。

 今年は藤沢雨紅の生誕250年にもあたります。

 以下、以前、私がブログに書いた記述と重複する部分がありますが、改めてご紹介をいたします。

 

藤沢()(こう)(秀子) 1767(明和4)年〜弘化2(1845)年 について

 

江戸時代後期に、坂城では数少ない女流俳人として名を成した藤沢()(こう)がいます。

 

本名を秀子といい、坂木宿大門町の旅籠屋「大藤屋」の当主清蔵に嫁しました。

                       

以下は、江戸後期の坂城町大門町の図

中央マークしてある家が、「大藤屋」

  

清蔵も貞雅と号する俳人でしたが、実力は雨紅に及ばなかったそうです。

 

雨紅は下戸倉宿の宮本虎杖に俳句を学び、享和元年(1801)の虎杖編の句集から俳句が掲載されるようになり、この後、内外の俳書に作品が数多く収録されていきます。

 

江戸の俳人小蓑庵碓嶺の俳書にも雨紅の作品が多数掲載されます。 

天保4年(1833)に雨紅を訪ねた江戸の俳人大野景山は「婦人には珍しき俳人なり」と評しています。 

60歳(耳順)になった、文政9年(1826)には、自句集『松蔭集』を刊行しました。これは坂城で刊行された唯一の句集であり、自句208首に雨紅と親交のあった俳人の句が掲載されています。 

また、辞世の句(79歳で死去) 「散やけし 花ならまじる 日もあるに」 は満泉寺の墓に刻まれています。  

                           

「松蔭集」の所在が不明でしたが、私が偶然、長野県立図書館で発見し、約5年かかりましたが、このたび再刊することができました。 

 

満泉寺の雨紅さんの墓前にささげました。

 

今回、その一部をご紹介します。  

 

  

        「松蔭集」表紙 右が今回再刊された句集の表紙

 

 「松蔭集序文」 (江戸の俳人小蓑庵碓嶺が記述)

 

 

信濃のくに坂木の雨紅今年耳順の春 

を迎ひ君が代にとたひ(途絶え)澄べき水の 

いろをくみてしりける山の春の難と 

古き世の御影を限なく歓びさゝれ石 

盡せぬ千曲の流を汲て更級や 

葛尾山の睦月の空をうつして 

老のこころをなぐさめ月花の 

冥加浅からずも自の句を撰みまた 

英雄の句をも女手のたよわくも拾 

ひ得てこれを酒肴にかえて賀莚を 

ましけるの志目出度文政九年の 

春の花とや言ん實や酒肴に 

かえて並べたる発句の中々朽果 

る世のあらざれば號は松蔭集 

と呼ことしかり   碓嶺述

 

 

「松蔭集」は自作の俳句が208句、その後に、江戸俳壇の大家を中心とした一茶を含む著名俳人9人の発句が続き、更に雨紅と仁井田(中村)碓嶺と八朗、3人の連句36首、雨紅と遠藤雉啄の連句18首、雨紅と碓嶺、如水の連句18首、そして、全国の俳人の発句100首という構成となっている大作です。

 

 

「松蔭集」から初めの5句。(初春の句)

                

 ・元日やこころのはなのあさ朗(ぼらけ) 

 ・元日や祝ふことさへありの侭 

 ・親と子の無事を宝に花の春 

 ・蓬莱や行義ただしく子はそだつ 

 ・月雪や世の旅ころもきそはしめ 

                                

 

「松蔭集」終わりの5句。(年納めの句)                 

 

 ・小原女の柴には雨かみぞれ降 

 ・友(共)に白髪(かみ)いだく迠(まで)を雪の様          

 ・行としを見に行頃やなごの海 

 ・年の市挟莚売も一世界・・(挟莚:さむしろ) 

 ・葛尾もとしのくれ行山路哉          

  

また、今回の再刊に際し、私の畏友で俳人の朝吹英和さんに前書きをお願いしました。

素晴らしい、前書きを寄稿していただきましたので、以下、掲載させていただきます。

 

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 藤澤雨紅『松蔭集』を読む      朝吹 英和 

 

 

様々な人々が往還した坂木宿旅籠屋の女将の感性が掬い取った俳句には日常生活を詠ったものが多く見られるが、中でも四季折々の豊かな自然の恵みに対する喜びが素直に表現されている。

 

旅籠屋の女将として加賀前田家をはじめとする参勤交代の一行、佐渡で採掘された金銀を江戸に運ぶ人たち、商売人から社寺参詣の庶民に至るまで幅広い階層の人々との交流から吸収した知識や情感は洗練された言葉遣いに結晶し、雨紅の俳句を格調高いものにしている。     

 

 

まつ風や松をはなれて松の聲         

 

 

 句集名にも表れている通り、松を詠んだ句が多く収録されているが、芭蕉の名言である「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」が想起された。対象と直接に向き合う事によってその本質は理解出来る。俳句における「写生」とは本質を認識する行為であり、写生を極めた掲句には松の木を揺らし松を離れて吹き抜けた風の中になお松の存在を感じる事が出来る。

 

 松は古来より日本では神の宿る木として崇められ、常緑樹である所からも不老長寿の象徴として尊ばれて来た。能舞台の背面に描かれた老松は「鏡板の松」と呼ばれ、神の依代とされる「(よう)(ごう)の松」に由来すると聞いた。掲句の他にも松をモチーフとした句が多く、雨紅の松に寄せる思いの強さが偲ばれる。        

 

 

はつ秋や松にはふるき松の聲

              

 

初雪や松はまつにて有ながら

 

 

きのふ見し松の低さや秋の月            

 

 

 平成二十七年九月、坂城町山村町長のお招きで「十六夜観月殿」で催された俳句会に参加した時の感興が蘇った。太郎山から姿を現し、輝きを増して中天に昇る月に言葉を失って見惚れる至福の時。後年、偶然にもサントリー美術館で遭遇した歌川広重の「六十余州名所図会」に収録された「信濃 更科田毎月 鏡薹山」は坂木の北東に位置する鏡薹山を描いた浮世絵ゆえに雨紅の眺めた名月に通じるものがある。

 

 右下に配された姥捨の棚田や松の木、左上の鏡薹山の上には輝く月の姿が美しく、棚田の一枚一枚にその月が映り込んでいる。

 

「田毎の月」に遭遇した芭蕉は十五夜のあまりの美しさに感動して俳句にする事が叶わず、翌日訪れた坂木で十六夜の句を作ったと伝えられ、その句碑は「十六夜観月殿」のそばに建立されている。          

 

 

いざよひもまだ更科の郡かな   芭蕉               

 

 

 そして芭蕉は坂木を訪れた翌年の正月には「田毎の月」を「田毎の日」に置き換えて詠っている。         

 

 

元日は田毎の日こそ恋しけれ  芭蕉           

 

 

 「田毎の月」の忘れ難い感動の大きさと、それを俳句に出来なかった芭蕉の悔しさが滲み出ている句ではないだろうか。

  

 

朝日よりゆふ日おがまんはるの海         

 

 

 海に面していない信州であれば、海に出掛けた折の体験か海をイメージしての句であろう。永劫回帰、輪廻転生の象徴としての循環する太陽に対する畏敬の念。落日を拝む雨紅の姿が想起され、希望に満ちた明日の存在を保証する太陽の再生への祈りが自然に伝わって来る。 

 

 

寝る人はねかせてののちや月の宿            

 

 

江戸幕府による北国街道の整備に伴い坂木藩や幕府の代官陣屋の置かれていた坂木は十七世紀の初め(慶長年間)に宿場が開設され隆盛を極めたとされ、大勢の旅人を饗応するために飯盛女(宿場女郎)も公認されていたという。

 

掲句の「寝る人」は様々な解釈が可能であるが、官能に溢れた旅の一夜を想像して読む事も出来るのではないか。華やぎの時も静まり静寂を取り戻した宿でしみじみと見上げる月の美しさはまた格別なものであろう。 

 

 

 産土の自然や風物を詠った雨紅の俳句に通底する瑞々しい抒情や詩情は時代を超えて現代の我々の心に沁み渡る。

 

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 以下、教育委員会からのご案内 

 

 お問い合わせは、文化財センター(0268-82-1109)までお願いします。

  
    

教育委員会刊行図書

 
NEW!!  松蔭集
     松蔭集
 

¥1,000
発行 2017年10月 坂城町教育委員会
著者 藤沢雨紅
★本書は江戸時代の坂城で唯一刊行された俳句集を、現代仮名と解説で読みやすくして出版したものです。著者の藤沢雨紅は、北国街道坂木宿の旅籠の女将であり、蕉風俳諧の俳人でした。前半は雨紅の自句集で、初春から年の暮までの句を歳時記のように収めています。後半は雨紅の選による、小林一茶ら江戸俳壇で活躍した俳人の名句集となっています。江戸時代の庶民の暮らしが垣間見え、俳句ファンならずとも楽しめる一冊です。(100P)

http://www.town.sakaki.nagano.jp/www/contents/1001000000634/index.html    
            

 坂城町長 山村ひろし

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17/04/11 04:06

「坂城の100人」第49回目は雷電為右衛門

 「坂城の100人」第49回目は雷電為右衛門としました。

 今年、生誕250年を迎えた雷電為右衛門は近郊の小県郡大石村(現東御市滋野乙)出身の大変有名な、無双力士といわれた相撲取りですが、巡業のため頻繁に北国街道を通り、坂木宿など訪れていました。

 また、雷電日記によると、少なくとも2回、坂木宿と中之条で相撲興行をおこなっています。

 十分、坂城ゆかりの人物ということが出来ます。

 相撲巡業についての記述は「雷電日記」(渡邊一朗監修、小島貞二編、ベースボール・マガジン社)によれば以下の通りです。

  

1.坂木宿での巡業 寛政12年(1800年) 

 「信州坂木の宿で二日間の興行を勤めた。ここでも天気に恵まれ、大入りであった。福蔵という人物が勧進元だったが、儲けは五分五分の取り決めで、木戸銭から十五両が手元に入った。 この興行が終わって在所に立ち寄り四日ほど逗留したが、その際、以前新築した家の建築費の未払い分五十両、また新築祝いの酒屋への支払い分二十八両を一括して支払った。」

 以上のように、坂木宿での興行の後、その儲けで故郷の大石村に帰り新築した家の支払いなどにあてたそうです。

 

2.中之条での興行 文化2年(1805年)

 「信州中野城(中之条)というところで三日間の興行を勤めた。ここでは百貫ほど(25両程度)の利益が上がった。」

 このあと、上田城下で一日逗留し、田沢温泉へ行き三日間逗留したなどと記述があります。

  

 「雷電日記」によると、とにかく、現在の北海道、沖縄を除く全国をくまなく巡業しています。 まるで芸能人の全国ツアーのようです。

 江戸期に相撲取りのことを 「十日で暮らすよい男」 などのような暇はまったくないことがわかりました。

             

 さて、坂城町「鉄の展示館」では、きたる、9月7日(土)より11月5日(日)まで、「大相撲と日本刀展」 を開催します。

 江戸期から現代までの名力士の所有する太刀や脇差などが展示されます。 もちろん雷電の所有していた道中差なども展示されます。 ぜひお出でください。

 

「鉄の展示館」サイト

http://www.tetsu-museum.info/

            

 以下、雷電為右衛門についての紹介をご覧ください。(東御市観光パンフレットより)

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無双力士 雷電為右衛門パンフレットより

道の駅雷電くるみの里 雷電資料館パンフレットより

 

1、生い立ち
 
 天下無双の大力士雷電為右衛門は、明和四年(1767)信濃国小県郡大石村(現東御市滋野乙)に生まれた。父は 半右衛門、母を けん といった。幼名を太郎吉と称した。太郎吉が少年だったある夏の午後、母のけんが庭で据風呂に入っていた。ところが急に雷鳴とともに激しい夕立がしてきた。太郎吉は、母を風呂桶ごとかかえて、家の土間に運び込んだという親孝行な逸話が伝えられている。
 また、細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に出会ってしまった。せまい道、よけることもできず困った太郎吉は、荷をつんだ馬の足を持って目よりも高くさしあげ、無事行列をお通しし、「あっぱれじゃ。」と殿様からお褒めにあずかった。
 
 2、江戸相撲に入門
 
 千曲川の対岸の長瀬村に上原源五右衛門という庄屋がいた。その庄屋は、学問好きで寺子屋師匠をする傍ら、石尊の辻をつくって相撲好きな若者の世話にも余念がなかった。このことを知った太郎吉は、上原源五右衛門方に寄食して学と技を磨いた。折しも、江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れた。その時、太郎吉は、浦風に相撲とりとしての才幹を見込まれ、天明四年(1784)十七才で出府、江戸相撲に入ることとなった。恵まれた天与の素質に加えて、熱心に稽古にはげんだ甲斐あって、寛政二年(1790)には関脇に付出され優勝した。完成七年には大関に昇進し、実に十六年二十七場所の長きにわたり大関の栄位を保持し、九割六分二厘という古今最高の勝率をあげた。
 雷電には禁じられた手が三つあった。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」である。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。なお、雷電は文化八年(1811)惜しまれつつ引退した。
 
 
 
3、お抱え力士
 
 山陰地方の親藩松江藩の殿様松平治郷(不昧公)は、雷電の力と技と学徳の傑出していることを見てとり天明八年(1788)松江藩に召し抱えた。雷電は、八石に三人扶持を与えられ、お抱え力士として活躍したのであった。彼は生涯雲州関為右衛門と自らも称し、藩務にも精を惜しまず、引退後は松江藩相撲頭取を任ぜられた。松江市にある松平家の累代の霊廟の一隅には雷電の墓が今も残っているが、彼がいかに厚偶されたかを知るに十分である。雷電は、文政八年(1825)妻にみとられながら五十九才で没した。死後その遺骨は分骨され故郷大石村(現東御市滋野乙)の関家墓地に葬られているが、雷電の力にあやかろうという参詣者が絶えない。 
 
 
4、生家とその復原
 
 三十三才の時、故郷大石村に帰った雷電は五十両で自分の生家を建てなおした。もっとも、その家は、自分が少年時代世話になった長瀬村の庄屋上原家より小さく建てた。ここに義理堅い雷電の一面がうかがえる。もっとも、家の竣工祝に、建築費と同額の五十両を投じ大盤振舞をしたという。
 昭和五十九年、雷電が建てたというその家も老朽化したので、関係者の協力で生家の復原ができた。この家は、土間に土俵が作られていることと、二階が桟敷席になっており、相撲ぶりが観覧できるのが特徴である。
 
 
 
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 坂城町長 山村ひろし

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17/03/01 11:13

「たばこ史研究」

 (公益)たばこ総合研究センターから、「たばこ史研究」No.139が発行されました。

 今回の研究論文の中に、昨年、坂城町の「玄古たばこ」の調査をされた、山本拓哉さんの論文が掲載されています。

                  

(昨年坂城町に調査に来られた様子は以下のブログをご覧ください。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=43522

 

 山本さんは、坂城町の調査の後に、生坂村を訪れ、「生坂たばこ」についても調査されたそうです。

 表紙には、千曲市戸倉の「坂井銘醸」さんで保管されている、「玄古たばこ」の写真と

 目次として、

 ・阿部徳吉郎110回忌にあたって

 ・長野特集(1) 「生坂たばこ」と中央大学初代総長「加藤正治(犀水)」を生んだ在方荷主に関する考察

 ・長野特集(2) 坂城町に残る玄古和尚の墓と碑

などが特集されています。

   

              

      

 本ブログで詳細を記述することはできませんが、ご興味のある方は、(公益)たばこ総合研究センター(〒105−0001 港区虎ノ門3-2-2 虎ノ門30森ビル Tel:03-3436-3771)へお問い合わせください。

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 坂城町長 山村ひろし

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16/11/04 04:04

男谷燕斎の書 続き(西念寺 般若心経)

 昨日(11月3日)、坂城町中之条の浄土宗 西念寺(若麻績実豊ご住職)で10回目となる「中之条だいこん祭り」が開催されました。

 恒例のお茶、おしぼりだいこんのお振る舞いのほか、今回は、神田陽子、神田桜子さんによる講談を聞かせていただきました。

 神田桜子さんは今年4月に陽子さんに弟子入りしたばかりの新人ですが、なかなかの才能をうかがわせるお話を聞かせていただきました。

 神田陽子さんからは、「真田幸村 大坂出陣の巻」など大変迫力のある素晴らしい講談を演じていただきました。

 そんな折に、若麻績住職にお願いし、かねてより拝見したかった、男谷燕斎の貴重な書を拝見させていただきました。

 これは、文化11年 甲戌(1814年)に書かれたもので、男谷燕斎が中之条の陣屋に代官として赴任した年で、燕斎が西念寺さんに般若心経を奉納したものです。

 男谷燕斎の書は今までにもいくつかご紹介してきましたが、このようにしっかりとした楷書で書かれているものも珍しく思います。 さすが、江戸幕府の正祐筆だなと感じました。

 また、この書は、絹布に書かれており素晴らしい色彩でもあります。 

 西念寺さんと男谷燕斎代官との関係の深さも感じられました。           

 

 

ご住職の若麻績実豊さん

                

 坂城町長 山村ひろし

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