16/11/04 04:04

男谷燕斎の書 続き(西念寺 般若心経)

 昨日(11月3日)、坂城町中之条の浄土宗 西念寺(若麻績実豊ご住職)で10回目となる「中之条だいこん祭り」が開催されました。

 恒例のお茶、おしぼりだいこんのお振る舞いのほか、今回は、神田陽子、神田桜子さんによる講談を聞かせていただきました。

 神田桜子さんは今年4月に陽子さんに弟子入りしたばかりの新人ですが、なかなかの才能をうかがわせるお話を聞かせていただきました。

 神田陽子さんからは、「真田幸村 大坂出陣の巻」など大変迫力のある素晴らしい講談を演じていただきました。

 そんな折に、若麻績住職にお願いし、かねてより拝見したかった、男谷燕斎の貴重な書を拝見させていただきました。

 これは、文化11年 甲戌(1814年)に書かれたもので、男谷燕斎が中之条の陣屋に代官として赴任した年で、燕斎が西念寺さんに般若心経を奉納したものです。

 男谷燕斎の書は今までにもいくつかご紹介してきましたが、このようにしっかりとした楷書で書かれているものも珍しく思います。 さすが、江戸幕府の正祐筆だなと感じました。

 また、この書は、絹布に書かれており素晴らしい色彩でもあります。 

 西念寺さんと男谷燕斎代官との関係の深さも感じられました。           

 

 

ご住職の若麻績実豊さん

                

 坂城町長 山村ひろし

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16/11/02 04:04

男谷燕斎の書

 先日、私の友人から男谷燕斎の新たな書を二つ紹介されましたが、そのうちの一つに大変、趣のある書がありましたので以下、ご紹介します。

 男谷思孝(燕斎)1777(安政6)年〜1840(天保11)年、江戸後期、中之条代官をつとめた幕臣で能書家であり、名奉行といわれた人物です。(中之条代官の期間は1813年から1820年)

 今までにも何回かご紹介しましたので、ご興味があれば以下のサイトをご覧ください。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30345
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40528
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40433
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40721

            

 さて、今回ご紹介するのは、男谷燕斎が中之条の代官を勤めた後に越後国水原の代官を務め、江戸に戻り、丸御留守居役に就任した1823年以降に書かれたものと推定されるものです。

 

 

「人情大密反成疎」

人情は本来、大変こまやかなものであるが、気をつけねば疎(あらい)ものになってしまう。

 

箱書きに「鍋島閑叟公御師範 男谷燕斎孝筆行書」とあり、軸の上部裏面には「貞丸殿御師範 男谷氏筆」とあります。

  

 貞丸は鍋島直正(閑叟)の幼名で、男谷燕斎が江戸に戻った1823年は8歳です。(直正はその後17歳で藩主となります。)

 

http://www.nabeshima.or.jp/main/40.html

        

 従って、この書は男谷燕斎が1823年以降、貞丸(鍋島直正)に書の指導をした時期に書かれたものと思われます。

 久米邦武著『鍋島直正公伝』によれば、『直正は書を幕府右筆の男谷燕斎(おだにえんさい/1777〜1840)に学び、「九歳の時の揮毫を見るに、殆ど成人の筆の如く」であった。』そうです。

  

http://saga-museum.jp/museum/exhibition/limited/2010/12/000503.html

          

 従って、この書は男谷燕斎による書のなかで、年代が概ね想定できる貴重なものだと思います。

 如何でしょうか。

                

 ちなみに、1823年は男谷燕斎が46歳、婿養子で幕末の剣聖といわれた男谷信友(精一郎)が34歳、燕斎の弟の勝小吉が21歳、その息子の勝海舟が生まれた年です。

            

           

 坂城町長 山村ひろし

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16/10/24 04:58

薄雲太夫新資料

 先日、上田市の藤本化工(株)佐藤修一社長が江戸中期の坂城町鼠宿出身で高名を馳せた薄雲太夫についての新資料をお持ちになられました。

(薄雲太夫については、以前、私のブログにも紹介しました。)

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30564

             

 今回、お持ちいただいた資料は、佐藤さんの先祖で、天明7年(1787年)に亡くなられた、佐藤嘉平次珍英(たかふさ)さんがお書きになったものです。

 いろいろと書かれていますが、薄雲に関しては、

 (1)元禄年間に、仙台藩士2名が 「お館」(第3代伊達綱宗と推測されます。)が亡くなった旨(おそらく薄雲も亡くなったこと)を玉の井清右衛門に連絡に来たこと。

 (2)その確認のため、赤池忠左衛門ほか2名のものが見届けに行き、薄雲の遺品(鏡台、玉手箱、硯箱、文箱、緋綸子内掛、掛け物など)をいただいてきたと書かれています。

 (3)本来ならば、この遺品は、薄雲の出である、玉の井家に収められるものでしょうが、赤池中左衛門が玉の井清右衛門にお金を貸していたということもあり、赤池家におさめられることになった。

 (4)後日、この内掛けに「いろは」の紋をつけたこと。

 (5)赤池忠左衛門の孫まつ(佐藤珍英さんの妻になる人)にこの遺品を渡したが、佐藤嘉平次珍英が、これは遊女の手にしたものなのでこれを所持するのはいかがなものかということで、耕雲寺に寄付をした。

 

 と以上のことが書かれています。

 残念なことに、かなりの部分が虫食い状態になっていますが、ほぼ内容はわかります。

 

「遊女うすくも」 右側には赤池氏のいわれが書かれています。

               

 

左:清右衛門の娘「てる」器量に優れていた。山谷の三浦屋に売られ、江戸桜として全盛となる。

右:東国の大鎮(伊達綱宗)が高尾太夫を「さけ切り」に殺した後、薄雲に心を寄せる。これを薄雲が受け入れるが、乱行が公儀に知れるところとなり、品川へ閑居させられる。その後、お館も逝去し、元禄のころ、仙台藩士2名が鼠宿に知らせに来る。見届として中左衛門他2名が行き、遺物を受け取る。孫娘に渡すが、佐藤嘉平次珍英に嫁ぐ際にその品々を持参したが、珍英が「遊女の手に触れたものなのでそれをたしなみ、耕雲寺に収めることに。

           

 

左:「は」、屏風、鏡台、玉手箱、硯箱、文箱、緋綸子内掛、掛けもの

右:「さ」、「右 佐藤嘉左司珍英 耕雲寺へ、寄付打居緋綸子切

  寛文、延宝のころ、東国大守愛妾用候品  珍英妻・・・

        

(耕雲寺にある「いろは」の文字のつけられた打掛)

          耕雲寺 寶物 高尾圓盡卓袱           

             

 さらに、薄雲の墓を確認すると、墓石には「正徳元年 8月2日」と書かれています。

 伊達綱宗の没年も同年の正徳元年(1711年 旧暦6月4日没)です。

 没後に坂城町鼠宿に仙台藩士2名が連絡に来たということが書かれている今回の資料は大変価値があると思われます。

 いままで、薄雲の墓についてもこれが鼠宿出身の薄雲の墓かどうか確信がありませんでしたが、墓石の年号、仙台藩士がわざわざ連絡に来たことなどから新たな事実が登場したように思えます。

 なお、品川の妙蓮寺さんにお聞きするとこのお墓は間違いなく坂城の薄雲であると言っておられました。また、、伊達綱宗との間に一子をもうけたそうです。(残念ながら夭折したそうですが。)           

                   

 

薄雲の墓 東京品川、妙蓮寺(山村撮影)

 

 今回の新資料については坂城町学芸員にお願いし解読しました。

           

 坂城町長 山村ひろし

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16/03/23 05:52

「坂城の100人」第48回目は出浦昌相

 NHK大河ドラマ 「真田丸」がなかなかの好スタートを切っておりますが、坂城に関係する人物がどのように登場するかも楽しみに見ています。

 先週(3月20日)は村上氏の家臣であった、室賀正武と出浦昌相(いでうら まさすけ)が登場し、真田昌幸暗殺計画に絡んで重要な役割を果たしました。 しかし、室賀正武が出浦昌相により殺害されると言うのは坂城の住人とするといささか辛いものがありました。

 私は坂城町上平(出浦)地区に住んでおります。 まさに、出浦城があった自在山(岩井堂山)の麓です。

                              

 

千曲川右岸から見た、自在山(標高約800m)、右は頂上の城址

                               

 さて、今回、「坂城の100人」の第48人目として、出浦昌相を取り上げます。

 NHKの大河ドラマでは、出浦昌相役を寺島進さんが演じていますが、誠に渋く、素晴らしい演技ですね。

寺島進さん NHKホームページより

            

 (以下、出浦昌相について、ウィキペディアその他のインターネットホームページなどより引用)

 出浦昌相(盛清)いでうら もりきよ、天文151546 - 元和9年(1623)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。

 村上氏、真田氏の家臣。主水佐、上総(守)、対馬守。

 信濃国埴科郡坂城町出浦の生まれ。

 実名は昌相(まさすけ)。幸久(ゆきひさ)・頼幸(よりゆき)とも伝わるが誤伝である。

 清和源氏信濃村上氏の一族である出浦清種の次男とされ、更級郡の上平城主(出浦城主)や、上州岩櫃城代などを務めた。

 江戸時代後期に松代藩の家老を務めた河原綱徳が記した『本藩名士小伝』の記載に甲州透破忍者の棟梁とあり、忍者として知られるが、後述の忍城攻めにおける活躍を「忍」と誤伝された可能性が指摘されている。

 村上義清武田信玄に敗れ、越後に逃れると武田家に臣従し、甲州透忍者)を統率した。

 武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国衆たちはほぼ全員が長可を裏切ったが、盛清は撤退に協力した。

 長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。

 その後、天正11年(1583)から真田昌幸真田信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。

 更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。

 横谷左近とともに吾妻忍び衆を統率して活躍。

 天正18年(15906月、豊臣秀吉関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。

 松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。

 この頃は出浦対馬守を称している。

 関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡の群馬原町に住み、 元和9年(1623)に78歳で死去。

 子の出浦幸吉は、松代藩で1000石を領する家老となっている。

 また、真田信之が松代へ転封となるさいに、出浦昌相宛てに出した書状は信之が家臣たちに心配しないように気遣った貴重な書状と言われています。

                    

 

「元和8年(16221013日 出浦対馬守宛真田信之書状」(「おぎはら植物園」ホームページより) 

                      

 

 真田氏が上田から松代へ移されたときの情況を知る、二つとない貴重史料。
 上田から江戸に呼び出され、松代へ転封を命ぜられた信之が、帰国の途中、鴻ノ巣宿より、その家臣出浦昌相に宛てた書状である。

 
本文の中では、過分な領地を拝領しての松城(松代)移封を、将軍直々に命ぜられ、誠に幸せの至りであると述べながら、追って書き(尚々書き)では、もはや自分も老後に及び、上意でもあり、子孫のためでもあるから、命令どおり、松城へ移ることにする、心配しないでほしい。と記している。この追って書きの部分が、信之の本心でもあろうか。
 真田氏はもちろん、家臣団も先祖以来の地を離れざるを得ないわけで、彼らにもかなりの動揺があったものと思われる。それを配慮しての附記でもあろう。

長野市松代 矢野磐氏蔵

 

 尚々、我等事もはや老後に及び、万事入らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の為に候条、御諚に任せ松城へ相移る事に候。様子に於ては心易かるべく候。以上。
 去る十一日の書状鴻巣に参着、披見候。

 仍って今度召しに付いて、不図参府仕る処に、河中嶋に於て過分の御知行拝領せしめ候。殊に松城の儀は名城と申し、北国かな目の容害に候間、我等に罷り越し御仕置き申し付くべきの由、仰せ出だされ候。彼の表の儀は拙者に任せ置かるるの旨、御直に条々、御諚候。

 誠に家の面目外実共に残る所なき仕合せにて、今十三日鴻巣に至って帰路せしめ候。

 先づ上田迄罷り越すべく候間、其の節申すべき事これ在る儀、一角所迄遣わされ候。祝着に候。猶、後音を期す。謹言。


       伊豆守
 十月十三日  信之(花押)

  出浦対馬守殿

               

            

・・・・・・・・・・・・・・

           

 坂城の出浦昌相はこの戦国期に78歳まで生き延び、長寿を全うしたのですからすごいことですね。

            

          

                   

 坂城町長 山村ひろし

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15/08/14 16:14

男谷燕斎の娘の墓発見!(耕雲寺)

 男谷燕斎については何度かブログに掲載していますが、男谷燕斎の娘の墓が坂城町南条の耕雲寺にあると聞き学芸員と一緒に行ってみました。

 耕運寺はかつて、武田信玄、勝頼が厚く保護した曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。寺伝によると、天文22年(1553)甲州の耕雲寺の僧が開き、寺名は武田晴信(信玄)が命名したと言われている由緒あるお寺です。

 その耕雲寺の本堂の後ろ側に立派な墓石がありました。

            

墓碑正面には 「賢室素練禅童女」

        

墓碑正面左側に、「男谷氏女」、右面に、「文化十四年丁丑十月二十日」 

              

 男谷燕斎は文化10年(1813)から文政3年(1820)まで足かけ8年にわたり坂木、中之条代官(第11代)をつとめていますので、この墓の作られたのは赴任して4年後ということになります。

 男谷燕斎には男子がなく、同族の男谷信友(精一郎)を次女の婿養子にとっています。(文政12年 1830年 男谷信友20歳)

 従って、この耕雲寺の墓碑に書かれたのは、男谷燕斎の長女ではないかと推察できますが、他に資料が無く分かりません。

 また、燕斎自身が墓を作ったとしたら、「男谷氏女」とは記述しないのではないでしょうか。

 なんらかの事情で、江戸表にいる娘の逝去を知った耕雲寺の関係者が、当時の代官であった男谷燕斎を思って墓を建立したのではないかとも考えられますが。如何でしょう。

 どなたか、詳細をご存知の方がおられましたらお教えください。

                  

 坂城町長 山村ひろし

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