19/07/05 05:25
「老子と付き合う」(第2版)完成
私は中国古典の、「老子」について同志の皆さんと、毎月、勉強会を開催しています。
会の名前は、「考老会」 と言います。 (老いを考える会ではありません。 老子を考える会です。)
この会は私が東京にいるときから続けており、15年以上経過しています。
現在は、坂城町の 「村上山荘」(私の家ですが。) で毎月最終の日曜日、午後4時から皆で会読会を行っています。
この 「老子と付き合う」 は皆さんで議論したことを取りまとめたもので、老子についていろいろと自由な意見も取り入れられています。
なにしろ、2500年前の老子先生と語り合うのですからワクワクするほどの楽しみがあります。
また、この本は非売品なので、ご興味のある方は、「村上山荘」 へ直接お出でください。
また、本の色は、令和の色と言われている、梅・菫・桜の中から、鮮やかな、「菫色」 を選びました。
(令和慶祝カラーは日本流行色協会が制定。)
「考老会」 についてのお問い合わせは、
Mail : hhyamamura@nifty.com までお寄せください。
以下、「老子と付き合う」 の巻頭言です。
≪ 本年五月一日を期して、三十年余続いた平成が幕を閉じ令和がスタートしました。
田口佳史先生にご指導をいただく傍ら、同志で続けてきた老子の勉強会、「考老会」も東京の調布、新宿、さらには長野県坂城町で行い、15年以上が過ぎようとしています。
また、私にとっても令和元年より坂城町長としての三期目をスタートすることになりました。
このたび、老子の勉強会、「考老会」のテキストとして編纂した「老子と付き合う」の第二版を作ることになりました。
十六年前(平成十五年)に経営思想家でTAOクラブ代表の田口佳史先生から「老子講義」のお誘いを受けました。
ちょうどその前年に米国から帰国し、FUJITSUユニバーシティーを設立し、新たな経営者教育プログラムを開始していたところでした。
一方、米国の同時多発テロの後のアフガン、イラク戦争などの国際対応を見るにつけ、いよいよ二元論的なものの考え方についての限界、矛盾について大きな疑問を感じていました。
老子を読み込むうちに東洋思想の考え方、特に人間は「道」という大きな自然の中の万物の一つに過ぎず、さかしらな知識、欲望を追い求める無意味さを指摘される点に大きな感銘を受け、また、二千五百年前の老子と直接対話が出来ることにも大いなる喜びも感じました。
その後、老子を皆で読みあう「考老会」を結成しメンバーとともに老子を会読してきました。
「考老会」は東京の調布、新宿で会を重ねてきましたが、平成二十四年より、長野県坂城町で新たなメンバーを得、また、私のブログでも新たな解釈を含め取り上げてきました。
以前、「一日一老」として編纂したものを、装丁も新たに「老子と付き合う」として新しく纏め直しました。
もとよりこの本は学術書でもなく、研究書でもありません。「こんな解釈もあるのだ」と思っていただければ幸いです。
また、今回、新版を纏めるに当たり「考老会」メンバーから老子についてのコメントを数多くいただきました。
関連する章に各々原文通り掲載させていただきましたので、併せてお読みいただければ幸いです。
内容について問題点、不備な点など種々有るかと思われますが、すべての責任は編者に起します。種々ご指摘いただければ幸いです。
令和元年 己亥 五月 吉日 山村 弘 ≫
坂城町長 山村ひろし
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12/12/24 00:00
老子の続き(第81章)
いよいよ最後の章になりました。
このブログに書き始めて1年半、あっという間だったような気がします。
この章も老子の神髄を語っています。
信言不美、美言不信。 善者不辯、辯者不善。 知者不博、博者不知。 聖人不積、既以爲人、己愈有、既以與人、己愈多。天之道、利而不害。 聖人之道、爲而不爭。
信言(しんげん)は美ならず、美言(びげん)は信ならず。 善者は辯(べん)ぜず、辯ずる者は善(よ)からず。 知者は博(ひろ)からず、博き者は知らず。 聖人は積まず。 既(ことごと)く以(も)って人の爲にして、己(おのれ)愈々(いよいよ)有す。 既く以って人に與へて、己愈々多し。 天の道は、利して害せず。 聖人の道は、爲(な)して爭はず。
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12/12/15 01:09
老子の続き(第80章)
老子もいよいよ残すところあと2章となってきました。
この章はいわば老子の「国家論」と言えるものです。
超大国、武装大国を目指さない。 小さな国で国民の数が少なくても誇れる国を作る、ということですね。
小國寡民。 使有什伯之器而不用。 使民重死而不遠徙。 雖有舟轝、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。 使民復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗。 鄰國相望、雞狗聲相聞、民至老死、不相往來。
小國寡民(しょうこくくわみん)。 人に什伯(じゅうはく)するの器(き)有るも用いざらしむ。 民をして死を重んじて遠く徙(うつ)らざらしめむ。 舟輿(しゅうよ)有りと雖(いえど)も、之(これ)に乗る所無し。 甲兵(かふへい)有りと雖も、之を陳(ちん)ずる所無し。 民をして復(ま)た結縄(けつじょう)して之を用ひしむ。 其(そ)の食を甘(あま)しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しむ。 隣国(りんごく)相い望み、雞狗(けいく)の聲(こえ)相い聞こゆるも、民老死に至るまで、相い往来(わうらい)せず。
国民の数が少ない小さな国を考えてみましょう。 ここでは、人間の十倍、百倍の能力を持っている道具があったとしてもそれをあえて使いません。 人民には命の大切さを自覚させ、遠くへ移動することもしません。 舟とか車があってもこれにあえて乗ることもしません。 鎧や武器があったとしてもこれを見せびらかすこともしません。 昔ながらの文化・生活を大切にします。 自分たちの食べ物を旨いとし、身につけている服を美しいとし、その住まいに満足し、その習慣を楽しむのです。 そうなれば、すぐ近くに隣の国が見え、鶏や犬の声が聞こえるところにいても、人々が一生終えるまで、隣の国へ行き来したいとも思わぬくらいになるのです。
少し極端な話かもしれませんが、小なりと言えども、自分の文化を大切にし、誇りを持つ。 技術力もあり武力があっても見せびらかすようなこともなく、隣国と対立することもないということですね。
坂城町長 山村ひろし
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12/12/08 05:56
老子の続き(第79章)
この章はいわば 「道」 の 「裁き」 についてです。 なかなか意味深いものがあります。
和大怨、必有餘怨。安可以爲善。是以聖人執左契、而不責於人。有徳司契、無徳司徹。天道無親、常與善人。
大怨(たいえん)を和(やはら)ぐるも、必ず餘怨(よゑん)有り。 安(いずく)んぞ以(も)って善と為(な)す可(べ)けんや。 是(ここ)を以って聖人は左契(さけい)を執(と)るも、而(しか)も人を責めず。 有徳は契(けい)を司(つかさど)り、無徳は徹(てつ)を司る。 天道は親(しん)無けれども、常に善人に與(くみ)す。
統治者が人民に対して何らかの悪政を行い大きな怨みごとを買ってしまった場合、例え和解(何らかの補償などをして)したとしても必ず遺恨は残ってしまうものです。 いったいこれは正しいことなのでしょうか。 聖人と言われる人は、借金の証文(割り符)を持っていても決して取り立てなどはせず、人も責めません。 徳のある人はひたすら割り符を持ち、徳の無い人はひたすら取り立てを行うと言われます。 天の道はえこひいきはしないけれど、常に善人に味方するものなのです。
少しわかりにくい言い方ですが、有徳者が割符(債権)を持っていても請求などを行わず、一見、損ばかりしているように見えても、恨みを買うこともないのでいずれ天の助けを得ることができる、ということです。 何事もすべて裁判に持ち込む西欧的合理主義に対する批判でもあります。
坂城町長 山村ひろし
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12/11/30 20:55
老子の続き(第78章)
前に、第8章で 「上善は水の若(ごと)し」 というのが出てきましたが、この章でも水を引用し、「堅強」に比した「柔弱」の強さを述べています。 ここも大切な章ですね。
天下柔弱、莫過於水。 而攻堅強者、莫知能勝。 其無以易之。弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。 故聖人云、受國之垢、是謂社稷主、受國之不祥、是謂天下王。正言若反。
天下の柔弱なるもの、水に過(す)ぐるは莫(な)し。 而(しか)も堅強(けんきょう)を攻むる者、能(よ)く勝るあるを知る莫し。 其れ以(も)って之に易(かは)るもの無し。 弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざるもの莫きも、能く行なうは莫し。 故に聖人云(い)ふ、國の垢(あか)を受くる、是を社稷(しゃしょく)の主と謂(い)ひ、國の不祥(ふしょう)を受くる、是を天下の王と謂ふ、と。 正言(せいげん)は反(はん)するが若(ごと)し。
この世の中で水ほど柔弱なものはありません。 しかもいざとなると頑強なものを攻めるのに、水ほど強いものはありません。 水に代わるものもありません。 弱いものが強いものに勝つことがあることはだれでも知っていますがそれを実践できる人はいません。 そこで聖人は 「国の汚辱を自ら引き受けることの出来る人が本当の王であり、国の禍を一身に引き受けることのできるのが天下の王である」(本当に強い王がまるで弱者のように汚辱や禍を引き受けるのだ) と言っています。 このように、正しい言葉というのはあたかも反対のことを言っているように聞こえるものです。
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