13/03/08 04:37

「坂城の100人」第7回は昭和橋を設計した中島武さんです。

 「坂城の百人」 第7回目は、中島武氏です。
                    
 中島氏は坂城町生まれの方ではありませんが、もはや歴史的遺産といえる、昭和橋の設計者です。
 坂城町には159の橋がありますがその中でも 「土木遺産」 に認定された特別な橋です。
 坂城町では来年度より橋梁の補強工事を計画的に実施してまいりますがその中でもこの昭和橋の長寿命化は大切な事業だと考えております。
                           
 以下、この昭和橋ならびに設計をされた中島武さんについて、坂城町で2005年に編纂した 「ふるさと探訪」 から元教育長の大橋幸文さんの文章をお借りし記述させていただきます。
                        
 昭和橋を設計していただいた、中島武さんと昭和橋の物語です。
                       
土木遺産としての認定書
                      
昭和橋に架けられている認定盤
                    
                      
昭和橋近影        
   
昭和橋と自在山      
                     
                             
以前ご紹介した牧忠男さんの水墨画による「昭和橋」
                   
(牧忠男さんの昭和橋研究は以下のサイト)
                                 
                            
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(「ふるさと探訪」 2005年 より)
            
・鉄筋コンクリートローゼ橋の生い立ち
                       
 鉄筋コンクリートのローゼ橋は、戦争のため鋼材が不足したとき、昭和8年(1933年)から、長野県の道路技師を務めた中島武技師が設計した世界初の技術です。
 長野県内では、戦前に6橋10連、戦後昭和44年(1969年)までに28橋67連が建造されました。
 美しい放射線を描くアーチが特徴で、印象的な景観をつくっています。
 鋼材が自由に手に入るようになってからは、コンクリートローゼ橋の時代は終え、鋼橋となっています。
 
・中島武道路技師のこと
                     
 昭和8年(1933年)から昭和12年(1937年)までの4年間、長野県道路技師・土木技師を務めた中島武は、明治39年(1906年)札幌市に生まれました。
 昭和6年(1931年)北海道大学工学部土木工学科を卒業しました。
 卒業後、茨城県道路技手、岐阜県道路技手を経て、弱冠27歳で、長野県道路技師・土木技師となり、その時に鉄筋コンクリートローゼ橋を設計したのです。
 その後、国の内務省土木局に務め、戦後は建設省中部建設局長、関東建設局長などを経て、首都高速道路公団理事となり、昭和38年(1963年)に退職しました。
 昭和55年に亡くなられています。道路事業一筋に歩まれた生涯でありました。
 
・昭和橋の歴史
                     
 坂城と村上を結ぶ交通は、昭和3年(1928年)まで渡し船(渡船)でありました。船着き場までの道も、畦道程度のものでした。
 橋を架けたいという住民の願いは、年を追って高まり、たまたま上五明経営の渡し船が傷んで新調が迫られたのを契機に、昭和2年に坂城町と村上村両町村で更埴南道路組合を設立しました。組合は、翌年3年に木橋(板橋)を架け「昭和橋」と名付けました。
 昭和橋は、馬車も通れましたが、板橋のガタガタ橋で、下駄の歯が板の隙間に挟まるので、下駄を脱いで渡った人もいたということです。
 年々この道路の利用者が増大し、昭和10年(1935年)には室賀村(現上田市室賀)が加わり、坂城・室賀道路組合となり、永久橋架橋の計画が立てられました。しかし、町村道であるため、三か町村では永久橋にする経費が捻出できず、県の補助をあおぎました。
 少しでも多くの補助を受けるために、交通量の調査には、籾がらを俵やかますに詰めたり、子どもまで炭俵に入れて、荷車やリヤカーで何回も坂城駅まで運んだと、昨年亡くなられた田島清蔵元老人クラブ会長も炭俵に入れられて運ばれた経験を語っていました。
 昭和12年(1937年)、ようやく県の補助を得て、坂城側から3連を鉄筋コンクリートローゼ橋とし、その先を木橋として架設されました。
 しかし、木橋部は洪水のたびに流出したので全部を永久橋にしたいという住民の要望は年々高まりました。昭和22年(1947年)この路線が県道に編入され、県道上室賀坂城停車場線となり、昭和橋の維持管理も坂城・室賀道路組合から県に移管されました。
 昭和24年(1949年)のキティ台風で木橋部が流出した時は、上流の鼠橋も下流の笄橋も流出し、村上と坂城間の交通は上田橋を渡らなければなりませんでした。
 翌25年、既設の鉄筋コンクリートローゼ橋と同様のローゼ橋が災害復旧工事として着工され、27年(1952年)6連のローゼ橋が竣工し、現在の9連のローゼ橋となりました。この竣工を伝える「坂城町公民館報」には、「流れては直し、直しては流れと賽の河原を繰り返し今日に至った。故人となられた人々を始め先輩の努力が漸く実を結んだもので、感謝に堪えないところである」と記されています。
 
 しかし、9連の永久橋は完成しましたが、西端120m は架橋されず河川敷から斜めに木橋をかけて上り下りしました。ここに鋼橋の2連が架橋されたのは昭和39年(1964年)でありました。この鋼橋は国道19号線の改良工事によって生坂村で不要となった犀川の橋梁です。
 こうして全長460mの昭和橋が永久橋となったのは、最初の工事が始められて27年、県道になってから17年の年月を要しました。
 車時代になると昭和橋は交通のネックとなり、新たな橋が求められました。昭和62年(1987年)、坂城大橋が竣工しました。坂城大橋が、県道上室賀?坂城停車場線となり、今まで県道であった昭和橋ルートは再び町道に移管されました。
                                
(以上、「ふるさと探訪」 (2005年) より、元教育長 大橋幸文さんの文章から)
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 坂城町長 山村ひろし
 

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