11/09/24 03:14

老子の続き(第16章)

 この章には「帰根」という副題が付けられることが多いのですが、常に根本に立ち還ること、「道」のあり方に立ち還ることの重要性を述べています。 常道をわきまえるということですね。 「虚を致すこと極まり」は「無」の極地でもあります。

 

 致虚極、守靜篤、萬物並作、吾以觀其復。夫物芸芸、各復歸其根。歸根曰靜、是謂復命。復命曰常、知常曰明。不知常妄作凶。知常容、容乃公、公乃王、王乃天、天乃道、道乃久、沒身不殆。

 

 虚を到すこと極まり、静を守ること篤ければ、萬物竝(なら)び作(お)こるも、吾以って其の復(かえ)るを観る。
 夫(そ)れ物芸芸(うんうん)たるも、各々其の根に復帰す。根に帰るを静と曰ひ、是を命に復ると謂う。命に複るを常(じょう)と曰い、常を知るを明と曰ふ。 常を知らずして妄に作(な)せば凶なり。常を知れば容(よう)、容なれば乃(すなわ)ち公、公なれば乃ち王、王なれば乃ち天、天なれば乃ち道、道なれば乃ち久しく、身を没するまで殆(あやふ)からず。

 

 無の状態を保ち心を空虚にし静寂を保つことができれば、世の中のいろいろな物が生成発展してもそれがいずれたどり着く元を見ることが出来るようになります。
 草木が繁茂していてもそれはいずれその根に戻るものなのです。根に帰ることは静かな静寂にもどることだと言われています。
 これはその本来の運命に立ち戻ることなのです。この本来の運命に帰ることを常道と言います。この常道を知ることは誠に大切でこれは明智と言えます。この常道を知らなければ妄(みだら)な行為に走り禍を招くことになります。
 この常道を知ることが出来れば考え方に抱擁力が増えます。そうすると行いも公正で偏りの無いものとなります。こうなると、例えば王としての徳を身につけることができます。王の徳を身につけることが出来てくればその行いは天の働きと一致するようになり「道」を極めることになります。「道」を身に治めることが出来るようになれば生涯を通して危いうということは無くなります。
 
 老子で一番肝心なことは「身を没するまで殆(あやふ)からず。」 ということでもあります。 まあ、あくせくせずに、大自然の法則に従い堂々と「道」に従う、と言うことでしょうか。
 
 坂城町長 山村ひろし

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11/09/12 21:53

老子の続き(第15章)

 この章で、「微妙玄通」という言葉が出てきますが、これは正に、老子の神髄、「玄人」 について述べています。

 「玄人」は「素人」と違い、「見えないところが見える、先が読める、明日が見える」などともいえますね。  玄妙に通じている、「人間の最高峰」のあり方について述べています。 ただ、この人がどんな人なのかについては、いろいろな言い方、喩えをして説明をしています。 この表現を味わってみてください。

 

  古之善爲士者、微妙玄通、深不可識。夫唯不可識、故強爲之容、與兮若冬渉川、與兮若畏四隣、儼兮其若客、渙兮若冰之將釋、敦兮其若朴、曠兮其若谷、混兮其若濁。孰能濁以靜之徐清。孰能安以久動之徐生。保此道者、不欲盈。夫唯不盈、故能蔽復成。

 

 古の善く士たる者は、微妙玄通、深くして識る可(べ)からず。 夫れ唯識る可からず。 故に強ひて之が容(かたち)を為せば、與(よ)として冬川を渉るが若く、猶(いう)として四隣を畏(おそ)るるが若く、 儼(げん)として其れ客たるが若く、渙(かん)として氷の将に釈(と)けんとするが若く、敦(とん)として其れ朴(ぼく)の若く、曠(こう)として其れ谷の若く、混として其れ濁(にご)れるが若し。」  孰(た)れか能く濁も以て之を静にして、徐(おもむろ)に清まさん。 孰れか能く安んじて以て久しく之を動かして、徐に生ぜん。」 此の道を保つく者は、盈(み)つるを欲せず。  夫れ唯だ盈たず。 故に能く藪(やぶ)るるも復(また)成すなり。

 

  

 昔の「道」をよくわきまえた人は微妙な奥深いところに精通していてその有り様はなかなか理解できません。 なかなか理解しにくいのですが、仮にどのような態度ですかと例えれば、そっと冬の川を渡るようであるし、ためらいながら四方に気配りをするようであり、威儀をただして客人のようにしている風でもあり、ゆるやかに氷が融けるようであり、朴(あらき)のように純朴のようであり、滔々として水の流れる谷のようであり、混沌とした濁り水のようでもあります。
 濁った河の水を静かに澄ませたりするようなことは誰に出来るでしょう。 安定した状態であらゆるものを動かし物を作り出していくようなことは誰が出来るのでしょう。 それが道の働きなのです。
 この「道」を体現している者は、完全に満ちてしまうことを欲しません。 一杯にしないからこそ何か問題があっても元に戻ることが出来るのです。
 
   
      どうやら、すごいリーダーシップを持ちながら、傲慢なところがなく、用心深く、厳然としていて、なおかつ温かい人間性を持った最高のプロフェッショナルのようですね。
 
  
  坂城町長 山村ひろし

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11/09/02 01:14

老子の続き(第14章)

  この章では、世界の森羅万象の大本とでもいうべき「道」とはいったいどんなものなのか、いろいろ自分で考え、探り出していただきたい、ということです。 いわば座禅をやるようにとにかく自分でつかんで欲しい、「道」の本質を理解して欲しいということです。

  

 視之不見。名曰夷。聽之不聞。名曰希。搏之不得。名曰微。此三者不可致詰。故混而爲一。其上不�涼、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。是謂無状之状無物之象。是為忽恍。迎之不見首。隨之不見其後。執古之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀

 

 之を視れども見えず、名づけて夷(い)と曰う。之を聴けども聞こえず。名づけて希(き)と曰う。之を搏(とら)へんとすれども得ず。名づけて微(び)と曰う。此の三者は致詰すべからず。故(もと)より混じて一と為る。」其の上�涼(あきら)かならず、其の下昧(くら)からず。縄縄(じょうじょう)として名づくべからず。無物に復帰す。 是れを無状の状・無物の象と謂う。是れを惚恍と為す。」之を迎ふれども其の首を見ず、之に随へども其の後を見ず。古の道を執りて、以て今の有をし、能く古始を知る。是れを道紀と謂う。

  

 道は見ようとしても見えるものではありません。そこでこれを形の無いものとして「夷」と名付けます。また、何かを聴こうとしてもなにも聴こえません。そこでこれを音の無いものということで「希」と名付けます。捕まえようとしても捕まえることはできません。そこでこれがあまりにも小さいものなので「微」と名付けます。これらの三者は各々をとらえても意味がありません。この三者が一つになって道となっているのです。
 ふつう物体であれば上のほうにあれば明るく、下のほうにあれば暗いことが多いのですが道の場合はそうでもありません。おぼろげで言いようがありません。結局物の無い無物の状態に立ち戻っていくのです。これを言葉で言い表せば、状態の無い状態、物の無い象とでも言えます。別の言葉で言えばぼんやりした惚恍と言えます。
 普通の場合、向こうから誰かが来ればその首を見ることができますが、道の場合にはどんなものかその首を見ることはできません。
 また、後ろから付いていっても後部を見ることも出来ません。道は大昔からのやり方を心得えて現在のすべての物をコントロールしています。すべての太古の状態を知っているのです。これを道紀(ものごとのおおもと)と言います。
  
 「道」はありとあらゆる宇宙の根源なのですが、それだけに具体的に手に捉えることはできません。まことに漠としたものであります。 さらに、その「道」が万物の根源であるとともに、いまだにこの宇宙のすべてのものをコントロールしているという凄さを感じていただきたい。
 
  坂城町長 山村ひろし

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