11/11/26 15:07

老子の続き(第23章)

 さあ、この章もなかなか厳しいものですね。 「希言こそ自然なれ」あるいは「信足らざれば不信ある」 などと、余計なおしゃべりなどせず、誠を尽くしなさいということです。

 

 希言自然。飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者。天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、道者同於道。徳者同於徳。失者同於失。同於道者、道亦樂得之。同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。

 

 希言(きげん)こそ自然なれ。 飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終(お)へず、驟雨(しゅうう)は日を終へず。 孰(たれ)か此(これ)を為す者ぞ。 天地なり。 天地すら尚(なほ)久しきこと能わず。 而(しか)るを況(いわ)んや人に於(お)いてをや。 故に道に従事する者は、道ある者には道に同じくし、 徳ある者には徳に同じくし、失(うしな)へる者には失へるに同じくす。 道に同じくすれば、道あるものも亦(また)之(これ)を得るを楽しむ。 徳に同じくすれば、徳あるものも亦之を得るを楽しむ。 失(うしな)へるに同じくすれば、失へるものも亦之を得るを楽しむ。 信(まことた)らざれば、焉(ここ)に不信有るなり。

 

 聞き取れないような静かな言葉こそ自然な言葉なのです。 例えば、騒がしい暴風雨は半日も続きません。 また、激しい豪雨も一日中続くということはありません。 誰が自然をコントロールしているかと言えばそれは天地なのですが、この天地ですら長く続けることが出来ないようにいつまでもぺらぺらと話し続けることは出来ません。 道に従い無為自然に行動する人は、道を体得している人に対しては同じように振る舞い、徳を体得している人には同じように振る舞い、徳を失っている人に対しても同じように振る舞います。 道を体得した人からは得るものがあり楽しむことができます。 また、徳を体得した人からも得るものがあり楽しむことができます。 さらに、徳を失っている人からもまた得るものがあり楽しむことができるのです。 一方的に言葉多く誠実さのない発言ばかり多くては不信のみが残ることになります。
     
この章には、よく「虚無」というタイトルがつけられます。 
余計なおしゃべりをせず、自分の中にあるもの(「道」の心持)で相手の立場をわきまえて自然に対応せよ。 誠心誠意に対応しなさいということです。 時にはじっくり相手の言うことを、静かに真心を持って、聞いてあげましょう。
    
坂城町長 山村ひろし

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11/11/14 22:53

老子の続き(第22章)

 この章も、通俗の価値基準を真っ向から否定する鋭い言葉が続きます。 出だしの「曲なれば即ち全く」もすごい文ですね。 つまり 「まっすぐに伸びた木」は、一見素晴らしいようであるが、あっという間に伐採されてしまう。 だが、「多少曲がって生えた木」 の方は伐採されてしまうことなく一生健やかに生きられる、ということです。 これもなかなかすごいことではないでしょうか。

  

    曲則全。枉則直。窪則盈、弊則新。少則得、多則惑。是以聖人抱一、爲天下式。不自見、故明。不自是、故彰。不自伐、故有功。不自矜、故長。夫唯不爭、故天下莫能與之爭。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而歸之。

  

    曲(きょく)なれば即ち全(まった)く、枉(わう)なれば即ち直(なお)し。 窪(わ)なれば即ち盈(み)ち、敝(へい)なれば即ち新なり。 少(しょう)なれば即ち得、多なれば即ち惑ふ。 是(ここ)を以って聖人は一(いつ)を抱き、天下の式(しき)と為る。 自ら見(あらわ)さず、故(ゆえ)に明らかなり。 自ら是(ぜ)とせず、故に彰(あきら)かなり。 自ら伐(ほこ)らず、故に功有り。 自ら矜(ほこ)らず、故に長(ちょう)たり。 それ唯(た)だ争わず、故に天下能(よ)くこれと争う莫(な)し。 古(いにし)えの所謂(いわゆる)曲(きょく)なれば即ち全しとは、豈(あ)に虚言(きょげん)ならんや。 誠に全(まった)くして之を 歸(かへ)すなり。

  

  曲がりくねった木のほうが伐採されることもなく長生きすることができるのです。 尺取り虫のように曲がっていれば伸ばすこともできます。 窪みがあるからこそ水がたまることができるのです。 古着のようにぼろぼろになれば新しくなることもできます。財産が少なければこれからさらに得ることができますが、財産が多いとかえって困ることも多くなります。 このようなことからも聖人と言われる人は、道の考え方をもって人々の手本となっているのです。 つまり、自分を目立たせるようなことはしないのに、かえって人々にとって大きな存在となり、みずからその正当性を主張するわけでもないのに人々から認められ、自ら自慢するわけではないのに皆から功ありと認められ、みずから偉そうにしないのにリーダー役を頼まれ、人々と争うことが無いので誰からも争いを挑まれることもありません。 昔から曲がりくねった木は長寿を全うできるというのは本当のことです。 まことに身を全うしてわが身を大自然に戻すことができるのです。
  
  
   どうですか。 通俗的な社会常識の中で汲々として生きるのか、大自然の「道」とともに堂々と生きるのか。 問われています。
  
     坂城町長 山村ひろし
 

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11/11/06 05:19

老子の続き(第21章)

 この章では、徳を持った人はどんなふるまいをしているのか、また、「道」とはどんなものなのかを説明しています。 抽象的なものを老子流の言い回しで解説をしています。

 

  孔徳之容、唯道是從。道之爲物、唯怳唯忽。忽兮怳兮、其中有像。怳兮忽兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。自古及今、其名不去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉。以此。

  

 孔徳の容(よう)は唯(ただ)道に是れ従う。 道の物たる、唯怳(こう)、唯忽(こつ)。  忽たり怳たり、其の中(うち)像有り。怳たり忽たり、其の中物有り。  窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中精有り。其の精甚(はなは)だ眞にして、其の中信有り。  古(いにしえ)より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。  吾れ何を以て衆甫の然るを知るや、これを以てなり。

 

  本当の徳を備えた人はひたすら道のありように従っています。 ただし、道はまことにおぼろげでとらえにくいものなのです。 そのおぼろげな中にもなにかの形があり、そのぼんやりした中になにかの物があります。 影のように暗い中に何かの精のようなものがあります。 その精はまことの真でありその真の中に確かなものが存します。 大昔より現代にいたるまで道は絶えることなく続いています。 すべての万物を統括しているのです。 私が何をもってその事実を知るかと言えばこの道のありようを見ているからなのです。
  
    ここでは、「道のありよう」を述べていますが、何と言っても大自然を営々と総べている 「存在自体が説得力」 ということでしょうか。
   
  坂城町長 山村ひろし
 

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