12/03/30 04:21

老子の続き(第41章)

 この章は「道」のあり方、あるいは「道」についていろいろな面から述べています。 また、「大器晩成」という言葉もここから出てきたものです。

                       

 上士聞道、勤而行之、中士聞道、若存若亡、下士聞道、大而笑之。 不笑不足以爲道。故建言有之。 明道若昧、進道若退、夷道若纇。 上徳若谷、大白若辱、廣徳若不足。 建徳若偸、質眞若渝。 大方無隅。 大器晩成。 大音希聲。 大象無形。 道隱無名。 夫唯道善貸且成。

                                 

 上士は道を聞へば、勤めて之を行ひ、中士は道を聞けば、存(そん)するが若(ごと)く亡(な)きが若く、下士は道を聞けば、大(だい)として之を笑う。 笑わざれば以(も)って道と爲(な)すに足らず。 故に建言(けんげん)之あり。 道に明かなるものは昧(くら)きが若く、道を進むものは退くが若く、夷道(いどう)は纇(るゐ)なるが若く、上徳は俗なるが若く、大白(たいはく)は辱(じょく)せるが若く、廣徳(くわうとく)は足らざるが若く、建徳(けんとく)は偸(とう)なるが若く、質眞(しつしん)は渝(ゆ)なるが若し。 大方(たいほう)には隅(ぐう)無く、大器は晩成し、大音(だいおん)は聲希(こえな)く、大象(だいしゃう)は形無し。 道隠れて名無し。 夫(そ)れ唯道のみ善(よ)く貸し且(か)つ成す。

                         

 すぐれた人物は「道」について聞けば努めてこれを実践していると言いますが、普通の人に聞いた場合には半信半疑でよくわからない。 道について全く理解していない人に聞けば大声を出して馬鹿にして笑います。 このように笑われるくらいでなければ本物ではないのです。  格言として次のことが言われています。 「明るい道というのは照らし出されているものなのでかえって恐ろしく、暗い道ならば慎重に進むことになる」、「道を進む場合にもあたかも後ろへ戻るかのように慎重に歩を進める」、「平坦と思われる道もむしろごつごつしているものと思わなければならない」、「最高の徳を身につけた人はかえってへりくだっている」、「本当に真っ白に、潔白に見えるものはかえって汚れをよく知っている」、「広大な徳を身につけている人はむしろ、まだまだ足りないとへりくだっている」、「しっかりした徳を身につけている人はかえってだらしなく見える」、「ゆるぎない徳を身につけている人はかえって柔軟に対応し変わりやすいように見える」、「本当に大きなものにはその角などわからない」、「すぐれたものはすぐには出来ない」、「偉大なる大きな声はなかなか聞き取れない」、「大きな存在というものは、かえって、なかなか目に見えない」 道はそもそも目に見えるものでもなく、名もありません。しかしながら道のみが万物に力を貸し育て上げてくれるのです。

                    

 この章では、「道」のいろいろな側面から議論しています。 いわば「俗世間の基準から見ていてはなかなか理解できない」 ということを述べています。

                      

 坂城町長 山村ひろし

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12/03/25 06:36

老子の続き(第40章)

 前章は、老子の中でも一番長い章でしたが、この章は一番短い章ですね。

 しかしながら、この章も老子の本質が語られています。 この章はいわば老子の「生死論」とでも言えます。 冒頭の「反」は反対というより、「もとに戻る、立ち戻る」という意味です。

                              

 反者道之動、弱者道之用。天下萬物生於有。有生於無。

                                      

 反(はん)は道の動(どう)、弱(じゃく)は道の用なり。  天下の萬物有(う)より生じ、有は無より生ず。

                                 

 常に根源に立ち戻るのが道の動きなのです。 また、「道」は一見、弱々しく見えても常に柔軟に働きつづけます。 天下のすべての萬物は、「有(う)」、何かしらの存在から生まれてきますが、その「有」そのものは「無」といわれるすべての根源としての「道」から生まれてきます。

                      

 この章は私にとって大変大切にしている章です。

 私たちの人生は、「道」から「出生」し、人それぞれの人生を経験し、「入寂」します。 私たちの人生はいわば「道」からお借りして、「道」にお返しするようなものです。 従って、大切に、大切に磨き上げてお返ししなくてはならないのです。

 このような話をいつも学生、若者、あるいはお年寄りにも話してきました。

                    

 坂城町長 山村ひろし

 

                                   

 

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12/03/20 18:50

老子の続き(第39章)

 さあ、老子の中で一番長い章の一つです。 お付き合いください。

                             

 昔之得一者。天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下正。其致之一也。天無以清、將恐裂。地無以寧、將恐廢。神無以靈、將恐歇。谷無以盈、將恐竭。萬物無以生、將恐滅。侯王無以貴?、將恐。故貴以賤爲本、?必以下爲基。是以侯王自謂孤・寡・不轂。此非以賤爲本耶。非乎。故致數譽無譽。不欲琭琭如玉、落落如石。

                                          

 昔は之(これ)一(いつ)を得る者ありき。 天は一を得て以(も)って清く、地は一を得て以って寧(やす)く、神(しん)は一を得て以って靈に、谷は一を得て以って盈(み)ち、萬物は一を得て以って生き、侯王(こうわう)は一を得て以って天下の正(せい)を為(な)せ。其れ之を致せしものは一なり。 天以って清きこと無くんば、將(まさ)に恐らくは裂けんとす。 地以って寧(やす)きこと無くんば、將に恐らくは廢(くづ)れんとす。神(しん)以って霊なること無くんば、將に恐らくは歇(や)まんとす。 谷以って盈(み)つること無くんば、將に恐らくは竭(つ)きんとす。 萬物以て生くること無くんば、將に恐らくは滅びんとす。侯王以って貴高なること無くんば、將に恐らくは蹶(たふ)れんとす。 故に貴(き)は賤(せん)をもって本(もと)と為し、高きは必ず下(ひく)きを以って基(もとゐ)と為す。是を以って侯王自ら孤(こ)・寡(か)・不轂(ふこく)と謂(い)う。 これ賤(せん)を以て本と爲すに非(あら)ずや。 非(ひ)なるか。故に數譽(すうよ)を致せば譽(ほまれ)無し。 琭琭(ろくろく)として玉の如(ごと)くならんと欲せざれ。珞珞(らくらく)として石の如くあれ。

                        

 昔から「一(いつ)」、つまり根源的な「道」を体得したもののありようは次のようなものです。 まず、天は「一」を得ているからこそ清くいられ、地は「一」を得ているからこそ安定していることができ、神は「一」を得ているから霊妙を維持でき、谷は「一」を得ているからこそ満ちることができ、万物は「一」を得ているからこそ生きながらえることができ、王侯は「一」を得ているからこそ天下を正統に治めることができるのです。 このようなことが出来るのはすべて「一」を得ているからです。 天が清らかでなければ恐らく天がさけてしまうでしょう。 地が安定していなければ崩れてしまいます。 神が霊妙さを維持できなければ神として存続はできません。 谷が満つることができなくなればやがて涸れてしまうでしょう。 万物が生まれ生成しなくなれば滅びてしまいます。 王侯がその地位を維持できなければたちまち倒れてしまいます。 貴人は「一」をわきまえ、常に低きものの立場に立たなければなりません。 高きものは必ず低きものを礎とします。 従って、王侯は自らをもって自分をみなし子と言い、寡とか、しもべと呼んでいるのです。 これは貧しいものの立場を基に考えるということなのです。 栄誉を重ねるとかえって本当の誉れを無くしてしまうものです。 そこらにある石ころのように謙虚に「一」の立場をわきまえなければならないのです。

                            

 「万法帰一」という言葉があります。 物事の根源です。 時として「一」に戻り、些事に惑わされず、本質は何かということを考えたいものです。

                    

 坂城町長 山村ひろし

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12/03/17 14:55

老子の続き(第38章)

 この章から、いよいよ老子の後半「徳経」に入ります。 ここでは、前半で述べていた「道」のあり方をどうやって実践していくかが述べられます。

 冒頭、「上徳不徳」(上徳は徳とせず)。「最高の徳を備えている人はことさらに徳を意識することはありません。」と老子らしい言い方から始まります。

                           

 上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲、而無以爲。下徳爲之、而有以爲。上仁爲之、而無以爲。上義爲之、而有以爲。上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後禮。夫禮者忠信之薄而亂之首。前識者道之華而愚之始。是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。

                      

 上徳(じょうとく)は徳とせず、ここを以(も)って徳あり。 下徳(かとく)は徳を失わざらんとす、ここを以って徳なし。 上徳は無爲にして、以て爲せりとする無し。 下徳は之を爲して、以て爲せりとする有り。 上仁(じょうじん)はこれを爲して、以って爲せりとする無し。 上義(じょうぎ)はこれを爲して、以て爲せりとする有り。 上禮(じょうれい)は之を爲して、之に應ずる莫(な)ければ、則(すなわ)ち臂(ひじ)を攘(ひ)いてこれに扔(よ)らしむ。 故に道を失いて後徳、徳を失いて後仁、仁を失いて後義、義を失いて後禮あり。 夫(そ)れ禮は忠信の薄(はく)にして、亂(らん)の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)者は道の華(くゎ)にして愚の始めなり。 是(ここ)を以って大丈夫(だいじょうぶ)は、其の厚きに處(お)りてその薄きに居らず。 其の實(じつ)に處りて、その華に居らず。 故に彼れを去りて此れを取(と)る。

                

 最高の徳を備えている人はことさらに徳を意識することはありません。すでに徳が身に付いているからです。 徳が身についていない人は余計に徳を失わないように意識的に行動したくなります。徳がまだ身についていないからです。 最高の徳を備えている人は無為の状態でことさらに意識的なことは行いません。 徳が身についていない人は意識的にわざとらしい行動をとることが多くなってしまいます。「仁」を体得した人は自分の行いを自分でやったことだとは言わないが、「羲」を体得した程度の人では自分の行いをわざとらしく言ったりする。 「禮」を体得した程度の人では自分のやったことに反応しないと腕まくりをして近づいたりする。 つまり、そもそもの「道」を失ったために「徳」が説かれ、、「徳」を失ったのちに「仁」が説かれ、「仁」を失ったのちに「羲」が説かれ、「羲」を失った後に「禮」説かれたのです。「 禮」などが説かれるのは人間のまごころが薄弱になり乱世が始まってしまったからなのです。 さかしらな知識を振りまく者たちは道のあだ花であり愚劣の始まりなのです。従ってしっかりした人間は本源的な考えに立ち薄っぺらなさかしらな考えには立たないのです。 常に本質的な考え方を守り軽薄な考え方には立ちません。従って、「仁」、「羲」、「禮」をとらず「道」の考え方をとるのです。

                        

 そもそも、本当の「徳」があれば、「仁」、「羲」、「禮」などはいらないのだという個所は、儒家に対する批判的な意見と言われています。

 「道」のあり様を手本とした生き方を求めています。

                      

 坂城町長 山村ひろし

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12/03/10 07:10

老子の続き(第37章)

 一般的に老子は前半の「道経」(第1章から37章まで)と「徳経」(第38章から第81章まで)に分かれています。 しかしながら、1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種では、「道経」と「徳経」の順序が逆になっています。 いずれにしましても、前半最後の章です。

                      

 道常無爲、而無不爲。侯王若能守、萬物將自化。化而欲作、吾將鎭之以無名之朴。無名之朴、亦將不欲。不欲以靜、天下將自定。

                          

 道は常に無為なれども、而(しか)も為さざる無し。 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)く守らば、萬物將(まさ)に自ら化せんとす。 化して欲作(おこ)らば、吾將に之を鎮むるに無名の朴(ぼく)を以(も)ってせんとす。 無名の朴もてせば、亦(また)將に欲(ほっ)せざらん。 欲(ほっ)せず以って静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。

                     

 道は常にさかしらな行いをさけ常に無為の状態にありますが、それでいてすべてのことを成し遂げているのです。 諸侯や王がこれを守って政治を行えばすべてのものが自然に自ら成長を遂げることができます。 もし、この状況の中で何ものかが欲を持ち始めたなら、私ならば無名の朴(あらき)のようなものを用いて対応しこれを鎮めます。 無名の朴ならば再び欲を持つことはないからです。 このように欲の無い静かな状態となれば天下は自然とおさまっていきます。

              

 「而無不爲」、無爲にして爲さざるなし、という言葉はすごいですね。 さかしらに、人為的なことを行ってはならないということです。 「無為自然」の大切さ、じっと見守ることも大切です。 あまり「人為」を行えば、それは「偽」となります。

                  

 坂城町長 山村ひろし

                     

 

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12/03/02 19:12

老子の続き(第36章)

 この章も面白いところですね。 いわば 「世の中のことを、逆からとらえる」 ということでしょうか。

                                                          

 將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。

                               

 之を歙(ちぢ)めんと將(しゃう)欲(よく)せば、必ず固(しばら)くこれを張る。 之を弱めんと將欲(よく)せば、必ず固(しばら)くこれを強くす。 之を廢(はい)せんと將欲せば、必ず固くこれを興す。 之を奪わんと將欲せば、必ず固くこれに與ふ。 これを微明(びめい)と謂(い)う。 柔弱(じゅうじゃく)は剛強(がうきょう)に勝つ。 魚は淵(ふち)より脱す可からず。 國の利器(りき)は、以(も)って人に示す可からず。

                             

 相手の力を縮めたいと思ったらまず逆に思いっきり大きくさせるのです。 もし、力を弱めようと思ったら、逆に精一杯強く増長させるのです。 もし、だめにしてしまおうと思ったらしばらくこれを盛んにさせるのです。 もし、略奪しようと思ったなら、まずいろいろと与えるのです。 これを微明(びめい)と言って表ではわからない裏に隠された知恵です。 表面上柔弱にみえるものが大変鋼強そうに見えるものに勝つものなのです。 内にもったものを軽々しく表に出してはいけないのです。魚も静かに深い淵に潜んでいてこそ安全なのです。不用意に表面に出てはならないのです。同じように国の持つ優れた利器(道具、仕組みなど)をたやすく外部に見せてはならないのです。

                    

 まるで孫子の兵法のようですね。 

 老子の戦略論でもあります。

 甘い言葉には気を付けなければなりません。

 

                  

 坂城町長 山村ひろし

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