12/05/22 15:45

老子の続き(第50章)

 この章は老子の 「死生観」 を考える意味で重要な章です。

 人生は 「道」(大自然)から出生し、「道」 へ入滅する。 命は 「道」 からお借りしたものなのだから大切にしなくてはならない。

 磨きに磨いてお返しするものだと思います。

 従って、その大切な命を粗末に扱ったり、むやみに捨ててはいけない。

                             

 出生入死。 生之徒十有三、死之徒十有三。 人之生動之死地十有三。 夫何故。以其生生之厚。 蓋聞、善攝生者、陸行不遇兕虎、入軍不甲兵。 兕無投其角、虎無所措其爪、兵無所容其刃。 夫何故。 以其無死地。

                   

 出でて生き入りて死す。 生の徒、十に三有り。 死の徒、十に三有り。 人の生、動いて死地に之(ゆ)くもの、 十に三有り。 夫(そ)れ何故ぞや。 其の生を生とするの厚きを以(も)ってなり。 蓋(けだ)し聞く、善く生を摂する者は、陸行(りっこう)して兕虎(じこ)に遇わず。 軍に入りて甲兵を被(かうむ)らず。 兕(じ)はその角(つの)を投ずる無く、虎は爪を措(お)く所無く、兵は其の刃(やいば)を容(い)るる所無し、と。 夫(そ)れ何(なに)故(ゆゑ)ぞや。 其の死地(しち)無きを以ってなり。

                                

 人間、生を受けて生まれ、やがて死にます。 命を全うして幸せな人生を送れる人が十人中三人。 不幸にも若く死んでしまう人が十人中三人。 わざわざ死に行く人が十人中三人。 それはなぜでしょうか。 あまりにも生に対する執着が強過ぎるからなのです。 聞くところによれば、自分の生き方をうまく扱える人は、歩いて旅をしても虎や兕(じ)という獣(一角獣)に会うことがないそうです。 軍隊に入っても武器で身を固める必要もありません。 虎にあっても虎が爪を立てることも無く、敵兵も攻撃しようとしないのだそうです。 それはどうしてなのかというと、命に執着することが無いからです。

                    

 

 生に対しても「無為自然」の生き方が大切なようです。

                      

                          

 坂城町長 山村ひろし

                    

 

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12/05/16 21:09

老子の続き(第49章)

 この章も老子の本質に迫るところですね。 「不善を知れば知るほど善が分かる」 よく味わいたいところです。

                 

 聖人無常心。 以百姓心爲心。 善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。 信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。 聖人在天下、怵怵爲天下渾其心。 百姓皆注其耳目。 聖人皆孩之。

                  

 聖人には常の心無し。 百姓(ひゃくせい)の心を以(も)って心と爲(な)す。 善なる者は吾(わ)れ之(これ)を善とし、不善なる者も吾れ亦(また)之を善とせん。 徳善なればなり。 信なる者は吾れ之を信とし、不信なる者も吾れ亦(また)之を信とせん。 徳信なればなり。 聖人の天下に在るや、怵怵(ぢゅつぢゅつ)として天下の為に其の心を渾(にご)す。 百姓は皆其の耳目を注げども、聖人は皆これを孩(がい)にす。

                     

 聖人には特に固定された一定の心はありません。 すべての人民の心を受け入れて自分の心とするのです。 善人の心は良いものとして受け入れるし、不善といわれる人の心も善として受け入れることが出来るのです。 優れた徳を持っているからなのです。 信頼の置けるものの心も受け入れますが、信頼を置けないような人の心も受け入れることが出来ます。 優れた徳は本当の意味の信頼を体得しているからです。 聖人が天下を治めるときは無心の状態で私心をなくし自分の心をいろいろなものが混ざり合った自然な混沌とした状態にします。 一般の人民は色々なことを興味津々として聞き耳を立てようとしますが聖人はむしろ逆にこれらを閉じて純粋な幼児のごとく静かにしています。

                  

 「絶対矛盾の自己同一」という言葉も浮かびます。 じっくり考えたいですね。

                   

 坂城町長 山村ひろし

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12/05/09 02:31

老子の続き(第48章)

 この章も非常に重要な節だと思います。 正に、「無にしてさざる無し」 について述べています。

                      

 爲學日益、爲道日損。 之又損、以至於無爲。 爲而無不爲。 天下常以無事。 其有事、不足以取天下。

                       

 學を(な)せば日々に益(ま)し、道をせば日々に損(そん)す。 之を損し又(ま)た損し、以(も)って無(むい)に至る。 無にしてさざる無し。 天下を取るは常に無事を以ってす。  其の有事に及びては、以って天下を取るに足らず。

                    

 いわゆる知識というものは勉強すればするほど増えていきますが、道を学べば学ぶほどその知識がそがれ、日に日に減り続け、無為の状態になります。このさかしらな知識の無い無為の状態になれば何事でもすべてやり遂げられる状態になるのです。 天下を治めることが出来るのはこの仕掛けの無い状態にたどり着くことができるからであって、ことさらに何事かを仕掛けようとするとかえって天下は取れないものなのです。

                     

 この章には、しばしば「忘知」というタイトルが付けられます。

 知識は一日一日、増えていっても、本質に近づくためにはその「知識」を逆に一枚、一枚、剥がして行かなければならない。 そうしなければ神髄にたどり着くことが出来ない、ということですね。

                    

 坂城町長 山村ひろし

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12/05/03 07:47

老子の続き(第47章) ビートルズも歌う老子

 この章は老子の中でも重要な章ですが、もっとビックリするのは、あのビートルズがこの章を歌っているのです。 下段のユーチューブのサイトをクリックしてみてください。

                     

 不出戸知天下、不窺牖見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人、不行而知、不見而名、無爲而成。

                          

 戸を出(い)でずして天下を知り、牖(よう)より窺(うかが)はずして天道を見る。 其の出ずること彌々(いよいよ)遠(とほ)ければ、其の知ること彌々少なし。 是(ここ)を以(も)って聖人は、行かずして知り、見ずして名(あきら)かに、無爲にして成る。

                            

 聖人といわれている人は外に出なくても世の中のことが分かり、窓から外を窺わなくても自然の動きが良く分かるのです。 やみくもにどんどん外に出て行っても本質的なことはほとんど理解出来ません。 人は出歩かないでも世の中のことが良く分かり、見なくても物事の本質が良く理解でき無為の状態ですべてのことを成し遂げることが出来るのです。

                       

 真理は内面にあり、ということですね。

 以下は、ビートルズのジョージ・ハリスンが作曲した「The Inner Light」という曲です。ビートルズはしばしばインドに行っていますが、特にジョージ・ハリスンはインド音楽に傾倒しています。 ハリスンはこの詩を中国の「老子」として意識していたかどうか分かりませんが、 とにかくインド風の老子です。

              

                                      

(英語訳)・・ほぼ上述と同じ意味です。

 

Without going out of my door
I can know all things on earth
With out looking out of my window
I could know the ways of heaven

The farther one travels
The less one knows
The less one really knows

Without going out of your door
You can know all things of earth
With out looking out of your window
You could know the ways of heaven

The farther one travels
The less one knows
The less one really knows

Arrive without travelling
See all without looking
Do all without doing

                                          

(ユーチューブ)

http://www.youtube.com/watch?v=7oSuzEqHOcE

 

                    

 あるいは、「春は枝頭(しとう)に在りて已(すで)に十分」。 (戴益 たいえき:中国宋時代) とも同じ意味でしょうか。

 この意味は、「春を求めて一日中外を探したが、見つからなかった。 疲れ果てて家に戻って、自宅の庭先の梅の枝を見たら、その枝先に春のあることが分かった。」ということです。   

                              

                            

 坂城町長 山村ひろし

 

 

                     

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12/05/01 14:37

老子の続き(第46章)

 

 この章は、以前の第44章にあった、「足るを知る」 の関連です。 老子は欲望を禁じろとは言っていないのですが、「ほどほどに」ということを説いています。 ここでは、軍事の例を挙げています。

                          

 天下有道、却走馬以糞。天下無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲、禍莫大於不知足、咎莫大於欲得。故知足之足、常足。

                             

 天下に道有れば、走馬を却(しりぞ)けて以(も)って糞(つちか)ふ。 天下に道無なければ、戎馬(じゅうば)、郊(こう)に生ず。 罪は可欲(かよく)より大なるは莫(な)く、禍(わざわひ)は足るを知らざるより大なるは莫く、咎(とが)は得(え)んと欲するより大なるは莫し。 故に足るを知って之れ足れば、常に足る。

                             

 天下に道の考え方が行き渡っていれば、戦時の伝令用の馬(おもに牡)などは追いやられ耕作に使われることになりますが、道の考え方が行き渡らない世の中では争いが絶えず牝馬さえ軍馬用に供出され、郊外では馬のお産が増えることになります。 ことごとく罪悪の根源は過剰な欲望であり、満足ということを知らないことほど大きな問題はありません。 罪の原因は物欲より大きなものはありません。従って、足るということを知っていれば常に満ち足りた生活を送ることが出来のです。

                       

 「足るを知れば、満ち足りた生活ができる」 老子の真骨頂ですね。

                  

 坂城町長 山村ひろし

              

                   

 

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