12/09/27 00:01

老子の続き(第69章)

 この章も老子の兵法の続きになりますが、すごいところは 「先攻するものが勝つのではなく、襄(ゆずる)者が勝つ」 という徹底した哲学ですね。

                                    

 用兵有言、吾不敢爲主而爲客、不敢進寸而退尺。 是謂行無行、攘無臂、扔無敵、執無兵。 禍莫大於輕敵。 輕敵幾喪吾寳。 故抗兵相加、襄者勝矣。

                             

 兵を用うるもの言へる有り。 吾(わ)れ敢えて主(しゅ)と爲(な)らずして客(きゃく)と爲り、敢えて寸(すん)を進まずして尺(しゃく)を退く。 是(こ)れを行くに行くところ無く、攘(はら)ふに臂(ひぢ)無く、扔(つ)くに敵無く、執(と)るに兵無くしと謂(い)ふ。 禍(わざわひ)は敵を輕んずるより大なるは莫(な)し。 敵を輕んずれば幾(ほと)んど吾が寳を喪(うしな)はん。 故に抗兵(かうへい)相い加(くは)ふるときは、襄(ゆず)る者勝つ。

                        

 用兵について次のように言われていることがあります。 みずから決して攻撃を仕掛けてはならない。 むしろ応戦者の立場をとるべきですと。 あえて、一寸を進むのではなく一尺を退くのです。 このようにしていれば向かうところに敵がいるわけではなく、袖を振り上げても肘を払うこともなく、しかける相手もなく、武器をとることもありません。 敵のことを考えず仕掛けることは大変危険なことです。 敵を軽んじて戦をすれば自ら大切なのものを失ってしまいます。 従って、敵と相まみえるときは敵のことを十分に考え謙虚に行動するものが最終的には勝利を治めることが出来るのです。

                      

 孫子の兵法の原点ですね。日常の生活、ビジネス、政治においても大いに参考にしたいものです。

                          

 坂城町長 山村ひろし

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12/09/22 13:50

老子の続き(第68章)

 これからしばらく、老子の「戦争論」がいくつか続きますが、人間としての生き方についても大いに参考になりますね。

                          

 善爲士者不武。 善戰者不怒。 善勝戰者不爭。 善用人者爲下。 是謂不爭之徳、是謂用人之力、是謂配天。 古之極。

                          

 善く士たる者は武(たけだけ)しからず。 善く戰う者は怒らず。 善く戰に勝つ者は爭はず。 善く人を用ふる者は下ることを爲す。 是を不爭の徳と謂(い)ひ、是を人を用ふるの力と謂い、是を天に配(はい)すと謂ふ。 古えの極(きょく)なり。           

 

すぐれた武士は決して猛々しくありません。 すぐれた戦士は怒るということはありません。 戦い方のうまい人は決して正面切って争うことはしません。 人使いのうまい人は謙虚に振る舞います。 これらを不争の徳と言い、あるいは人使い力とでも言い、あるいは天の合理に合うとも言います。 これらは昔からの道の極致なのです。
                             
            
「不争の徳」 という言葉も重要ですし、実力者であればあるほど謙虚であるということも言えますね。
                            
                        
坂城町長 山村ひろし
                                         

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12/09/15 12:36

老子の続き(第67章)

 この章では老子の「三寳」(さんぽう 三つの宝)について述べています。

 一般的には仏教での三宝(佛・法・僧)のことを言いますが、老子は「慈、儉、先とならず」の三つを言っています。

                                 

 天下皆謂我道大似不肖。 夫唯大故似不肖。 若肖、久矣其細。 夫我有三寳。  持而寳之。 一曰慈、二曰儉、三曰不敢爲天下先。 慈故能勇。 儉故能廣。 不敢爲天下先、故能成器長。 今舍慈且勇、舍儉且廣、舍後且先、死矣。 夫慈以戰則勝、以守則固。 天將救之、以慈衛之。

                           

 天下皆我が道を大にして不肖(ふしょう)に似たりと謂(い)ふ。 夫れ唯(ただ)大なるが故に不肖(ふしょう)に似たり。 若(も)し肖(に)なば、久しいかな其の細(さい)たること。 夫れ我れに三寳(さんぼう)有り。 持(じ)して之を寳とす。 一に曰(いわ)く慈(じ)、二に曰く儉(けん)、三に曰く敢えて天下の先(せん)と爲(な)らず。 慈なるが故に能(よ)く勇(ゆう)なり。 儉なる故に能(よ)く廣(くわう)なり。 敢えて天下の先と爲らず、故に能く器長(きちゃう)を成す。 今慈を舎(す)てて且(まさ)に勇ならんとし、儉を舎てて且に廣くあらんとし、後(おく)るるを舎てて且に先んぜんとすれば、死せん。 夫れ慈以(も)って戰えば則(すなわ)ち勝ち、以って守れば則ち固し。 天將(まさ)に之を救はんとす。 慈を以って之れを衛(まも)らん。

                            

 

天下の人々は皆、私(道のありかた)をでかいだけでろくでなしのようだと言います。 しかし大きく普通とは違っているからこそ大きな存在となれるのです。 もしこじんまりと普通の人物ならばいかにも小さな存在でしかありません。 私にはいつも大切にしている道としての三つの宝があります。 一つは慈、母性愛です。 二つ目は倹つまりつつましく控えめにすること、三つ目は天下の先頭に立とうとしないことです。 慈、つまり母の愛こそいざとなれば大変な勇気を発揮することがあります。 倹、つまりいつも控えめに倹約を心がけていれば広く分け与えることも出来ます。 また、あえて人民の先頭に立とうとしなければ、むしろ皆から推されて結局、指導者に推戴されることになるのです。 それを逆に、慈をすてて武勇で突き進もうとしたり、つつましやかにすることなく無理にあちこち手を出したり、後ろに控えるのを忘れ無理に先頭に立とうとするならば無理がたたり死にいたることになってしまいます。 慈愛の心をもって戦えば勝ち、これで守れば堅固な守りが出来ます。 天はまさにこのような人物を救うのです。 天は慈愛のこころをもって守ってくれるのです。
                                          
                         
                      
「不肖の息子」などと言いますね。 親と似ないどうしようもない息子の事を言いますが、ここでは、むしろ「不肖」の方が良い。 「不肖」くらいでないと人並みのちっぽけな人間になってしまうと言うのです。
なかなか厳しいですね。
                          
                        
坂城町長 山村ひろし 

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12/09/11 04:27

老子の続き(第66章)

 この章にはよく、「後己」 というタイトルが付けられます。 まさに大人物であればあるほど、「己を後ろにする」 ということです。

                     

 江海所以能爲百谷王者、以其善下之。 故能爲百谷王。 是以聖人欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。 是以聖人處上而民不重。 處前而民不害。 是以天下樂推而不厭。 以其不爭故天下莫能與之爭。

                                     

 江海(かうかい)の能(よ)く百谷(ひゃくこく)の王たる所以(ゆえん)の者は、其の善く之に下るを以(も)ってなり。 故に能く百谷の王爲(な)る。 是(ここ)を以って聖人民に上(うへ)たらんと欲せば、必ず言(げん)を以って之に下る。 民に先(さき)んぜんと欲せば、必ず身を以ってこれに後(おく)る。 是を以って聖人上に處(お)るも民重(おも)しとせず。 前に處るも民害(がい)せず。 是を以って天下楽しみ推(お)して厭(いと)はず。  其の爭はざるを以っての故に天下能(よ)く之と爭う莫(な)し。

                                               

 

大河や海がもろもろの河の王と言われるのはひたすらその下流にとどまっているからです。 下流にいてすべてを受け止めているからこそ河の王と言われるのです。 このように聖人と言われる人も、人民の上に立とうとするならば必ず謙虚な言葉遣いでへりくだり、人民の先に立とうとするならばむしろ人民の後方に控えているものなのです。 それなので、人民は聖人が上にいても重みを感じず、前にいても邪魔だとは思わないのです。 結果として、天下の人々は進んで彼を指導者として推戴することになるのです。 誰とも争うことをしないので天下中の誰も敵対しようとはしないのです。
                                           
                     
まさに、「無為自然」 であればこそ 「不爭謙下」 であるのですね。
                                          
                             
坂城町長 山村ひろし

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12/09/04 04:23

老子の続き(第65章)

 この章は、一見、「愚民政治」を推奨しているかのようですが、そうではなく、老子が一貫して主張している 「小利口な」 「小賢しい」 人間ばっかり増やしてはいけないということです。

                                          

 古之善爲道者、非以明民。將以愚之。民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊、不以智治國、國之福。知此兩者、亦楷式。常知楷式、是謂玄徳。玄徳深矣遠矣、與物反矣。乃至於大順。

                                           

 古えの善く道を爲(をさ)むる者は、以(も)って民を明らかにするに非ず。 將に以ってこれを愚(ぐ)にせんとす。 民の治め難(がた)きは、その智の多きを以ってなり。 智を以って國を治むれば、國を之れ賊(ぞく)し、智を以って國を治めざれば、國を之れ福す。 此の兩者を知るも、亦(また)楷式(かいしき)なり。 常に楷式を知る、是(これ)れを玄徳(げんとく)と謂(い)ふ。 玄徳は深く遠し。 物と反(はん)す。乃(すなわ)ち大順(たいじゅん)に至る。

                                    

 

昔の、道を極めた人は人々を智にたけた人民にしようとはしませんでした。むしろ素朴な心をもった人々を育てようとしたのです。 知識偏重の国民ばかりでは統治をすることは甚だ困難になってしまいます。 才知をもって国を治めようとするのは害を増やすことになってしまいます。 その反対を行えばかえって問題が少なくなります。 この両者の関係を知ることは大事な原則です。 常に原則に則っていく、これを玄徳と言って奥深く深遠な考え方なのです。 常に根本的な原則に戻る。 これが大きな自然の大原則である大順(大きな自然の流れ)に行きつくことになります。
                                
                                     
かつて良寛は自らの号を大愚とし「大愚良寛」としています。 「愚」とはまさに無爲に生きるということですね。 今の政治、教育のあり方を老子先生は何と見ているのでしょう。
                                        
                 
坂城町長 山村ひろし

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