12/10/30 17:21

老子の続き(第74章)

 この章はいわば老子の「刑法論」ですね。

 前章の「天網恢恢」と同じように天が裁くということでしょう。

                                             

 民不畏死、柰何以死懼之。若使民常畏死、而爲奇者、吾得執而殺之、孰敢。常有司殺者。夫代司殺者、是謂代大匠斲、夫代大匠斲者、希有不傷手矣。

                                      

 民(たみ)死を畏(おそ)れずんば、奈何(いかん)ぞ死を以(も)って之を懼(おそ)れしめん。 若し民をして常に死を畏れしめて、而(しか)も奇(き)を爲(な)す者は、吾(われ)執(とら)へて之を殺すことを得ば、孰(た)れか敢えてせんや。 常に司殺(さつ)者有り。 夫(そ)司殺者に代る、是れを大匠(だいしょう)に代わりて斲(き)る謂(い)ふ。 夫(そ)れ大匠に代わりて斲る者は、手を傷つけざる有ること希(な)し。

                                       

 人民が絶望感、あるいは捨て鉢な気持ちになって死を恐れなくなってしまったらどのようにして死刑などの刑罰を恐れさせることができるのでしょうか。 逆にもし人民が死を大変恐れているのに、犯罪を犯した場合に、私が捉えて死刑にすることも出来るのですが、そうすると罪を犯す人が少なくなるかも知れません。 しかしながら、世の中には自然の道理として犯罪を犯した者が自然と死に至るような摂理が働くのです。 その死殺者に代わってあえて処分をしようとする者は、あたかも優秀な大工にかわって木を切るようなもので、必ず手を傷つけてしまうことになるのです。

                           

 老子流に言えば、犯罪を犯したものに対する刑罰についても大きな自然の動きの中で自然に淘汰されるということですね。

 無闇に天に代わって、あるいは「道」に背いて安易に死刑などの執行をしては「自ら手を傷つける」ということですね。

                           

 坂城町長 山村ひろし

                        

 

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12/10/23 19:48

老子の続き(第73章)

 「勇敢」という言葉がありますが、果たしてそれで良いのだろうか。 老子の問いかけです。 

                                  

 勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。是以聖人猶難之。天之道不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、繟然而善謀。天網恢恢、疏而不失。

                                   

 敢(かん)に勇なれば則(すなわ)ち殺(さつ)、不敢に勇なれば則ち活(くわつ)。 此の兩者、或(ある)いは利或いは害。 天の惡(にく)む所、孰(たれ)か其の故を知らん。 是(ここ)を以て聖人も猶(な)ほ之を難(かた)しとす。 天の道は、爭わずして善く勝ち、言わずして善く應じ、召さずして自(おのずか)ら來たり、繟然(せんぜん)として善く謀る。 天網(てんもう)恢恢(くわいくわい)、疏(そ)にして失はず。

                                      

 あまりにも果敢に行動する者は死に至り、慎重な態度をとっている者は生きながらえることが出来ます。 この両者の生き方にはそれぞれ利害があります。 しかし天の判断するところを誰が知ることが出来るのでしょうか。 この点から、聖人と言われる人にとってもその判断は難しいのです。 天の道は争わずして勝ち、言わずとも応答し、呼ばないのに到来したり、ゆったりと物事を最善の方法で裁くのです。 天の法網といわれているものは大変大きく、目も粗いのですがしっかりと見ていて、何事も捉えられないことは無いのです。

                                

 「 天網(てんもう)恢恢(くわいくわい)、疏(そ)にして失はず。」

 これも有名な言葉ですね。

 最近、何十年も指名手配だった逃亡犯が捕まっていますが、正に、「天網恢恢、疏にして失はず」ですね。 政治の悪いところも御目こぼしなく矯正してもらいたいものです。

                            

 坂城町長 山村ひろし

 

                   

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12/10/16 23:17

老子の続き(第72章)

 この章は 「愛己」 と題されることがありますが、まさに自己を愛する者は、己を知り、誇らず、謙虚でなければならないと説いています。

                                      

 民不畏威、大威至矣。 無狭其所居、無厭其所生。 夫唯不厭、是以不厭。 是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。 故去彼取此。

                                 

 民、威(い)を畏(おそ)れざれば、大威(たいい)至らん。 其の居る所を狭しとする無く、その生くる所を厭(いと)ふこと無し。 夫れ唯(た)だ厭はず、是を以(も)って厭はれず。 是を以って聖人は、自ら知りて自ら見(あら)はさず、自ら愛して自ら貴(たっと)くせず。 故に彼(か)れを去りて此(こ)れを取る。

                           

 人々が天威を恐れず思い上がってしまうと、かならず大きな天罰が起きます。 人々が自分の住むところが狭い、などと我儘を言わず、自分の生き方を厭(いと)わなければ天から厭われることもありません。 聖人と言われる人は自らをよく知り、自らを見せびらかしたり威張ったりしません。 驕慢を去り、道にしたがって無為自然の生き方をするのです。

                            

 この章は短いですが、なかなか難解な箇所があり諸説の解釈があります。 私はごく自然に 「愛己」 とは何かという考えで訳しました。 本当の意味で「自分を愛する」 とは何かを考えると、己に対して正直に 「無為自然」 に生きることだと思います。

                                      

 坂城町長 山村ひろし                

 

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12/10/11 18:17

老子の続き(第71章)

 この章は大変短い章ですが、誠に重要なメッセージを送っています。

 「知らぬことを知る」 ということです。 「中途半端に知っているつもり」ということは大変危険なことですね。

                      

 知不知上。 不知知病。 夫唯病病、是以不病。 聖人不病、以其病病。 是以不病。

                               

 知りて知らずとするは上。 知らずして知れりとするは病(へい)。 それ唯(た)だ病を病とす。 是(ここ)を以(も)って病(へい)せず。 聖人病せず。 其の病を病とするを以ってなり。 是を以って病せず。

                                  

 自分で分かったと思ってもまだまだこれでは不十分だとするのが最もよく、良く分かっていないのに知ったかぶりをすることは甚だ良くないことです。 このように自分の短所あるいは不十分なことを自覚することが大切です。 このようにすればこの欠点も欠点でなくなります。 従って聖人と言われる人はこの点を十分理解しているので欠点がないのです。 その欠点を欠点として自覚しているからなのです。 そのために問題点を持つことが無いのです。

                     

 「知りて知らずとするは上」 素晴らしい言葉ですね。

 常に謙虚にひたすら勉強。

 心がけたいものです。

             

                             

 坂城町長 山村ひろし

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12/10/03 04:04

老子の続き(第70章)

 この章も凄いですね。

 世の中の人に 「 自分の事を理解してもらえない、分かってもらえない。 だからこそ価値があるのだ」  とまで言っています。

                                          

 吾言甚易知、甚易行、天下莫能知、莫能行。 言有宗、事有君。 夫唯無知。 是以不我知。 知我希、則我者貴。 是以聖人、被褐懷玉。

                                

 吾が言は甚(はなは)だ知り易(やす)く、甚だ行ひ易きも、天下能(よ)く知る莫(な)く、能く行ふ莫し。 言(げん)に宗(そう)有り、事(こと)に君(きみ)有り。 夫(そ)れ唯だ知る無しとす。 是(ここ)を以(も)って我れを知らず。 我れを知る希(な)ければ、則(すなわ)ち我れは貴(たふと)し。 是を以って聖人は、褐(かつ)を被(かうむ)りて玉(たま)を懐(いだ)く。

                                           

 私の道についての話はまことに分かりやすく、また、はなはだ行いやすいことなのですが、世の中の人々はだれもそれを知らず、それを実行している人もおりません。 私の言葉には本質があり、行っていることにも実態があります。  それがまったく理解されていないのです。 従って私のことも理解していないのです。 しかしながらそれを知っている人が少ないということはそれだけ価値が高いということです。 ですから聖人と言われる人も粗末な衣を着ていても胸の中には玉を抱いているのです。 外からみてもなかなか本質的なことは理解されないのです。

                           

 これは決して老子の自虐的な言ではありません。 胸を張って言わば 「絶対的自由を得る」 境地でしょうか。

 「被褐懷玉」(褐を被りて玉を懐く)。この言葉も重要ですね。

                                

 坂城町長 山村ひろし

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